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宝暦期八戸の染色産業 |
斎藤 潔 八戸水産高校教諭 230107 |
一、はじめに『八戸市史』をめくっていると、紫の記事によくぶつかる。「南部の紫染」とよくいわれるが、『八戸市史』でみるかぎり、それは紫根移出の記事であって、紫根で染めた布地とか衣服の移出記事はみえない。恐らくは染料の原料として、江戸とか仙台の大都会に移出され、そこで染めあげられてから、たとえば「江戸紫」などともてはやされたらしい。 原料が豊富でありながら、なぜ紫染めが産業として成立しなかったのだろうか。西村嘉氏は「わが国の紫の産地のうつりかわりをみると、各時代の辺境が紫根の産地としてあげられている」とし、「草原の植物である紫は、土地の利用が粗放で、焼畑農耕ないしは放野の多い周辺の地域が産地」であったという。してみると、紫根移出の盛んな八戸は江戸時代には辺境の地として性格づけられるわけであり、今も昔も大消費地の都会から遠いがために原料供給地としてとどまっているのではなかろうか。 しかし、現在では八戸も工業都市となり、紫はまばろしの花となり、ごく少数だけが残っているようである。このように紫が減少したのは、種子の発芽率が低いこと、本質的に生命力が弱く、ほかの雑草と共存できないことがあげられよう。しかも栽培もむずかしいのだが、数人の熱心の人々によってようやく保護されているだけだといえよう。 二、宝層以前の紫根本稿では紙数の関係で宝暦期の染色業だけを述べるつもりなので、八戸藩成立の寛文から寛延までの紫根について軽くふれておきたい。まず八戸地方の紫根及び紫染めについては、『南部紫抄』という好著がある。その内容の紹介は省略するが、ここには紫の歴史とそれから八戸藩の紫根移出については寛文七年(一六六七)から宝永元年(一七〇四)までの記事があり、恐らくは『八戸市史』第一・二巻から主に引用されたようである。もちろんその後も幕末期まで様々な書物からの引用がみられる。この他に紫のことを述べているのは『九戸地方史』 中の「紫根産業」、また『南部むらき』という本がある。これらを参照しながら、八戸の紫根移出の記事をみてみよう。 寛文七年には五十四貫の紫根を江戸に送った。送り主が明記されていないのは藩が送ったもので、これには足軽がついていった。八年には紫根七十七貫と五駄を送っている。一駄の重量は様々だが、三十貫とみて、合わせて二百二十貫位であろうか。一駄の運賃は江戸まで一両とある。九年には紫根密売禁止令が出され、また四駄が送られた。十二年には百六十五貫余を六駄で送っている。 延宝二年(一六七四)になると、剣吉の久作という者が御蔵藍を鹿角松山方面で商売している。御蔵藍というのは藩から払下げられた藍のことであろうか。三年、新井田に染屋があったことがみえている。五年に改めて紫根密売禁止令が出されたことからみると、かなりの密売があったといえよう。それだけに利益も大きかったのだろう。 天和元年(一六八一)に八日町喜兵衛より十二駄の紫根が送られた。貞享二年(一六八五) には御役紫、御買紫という語が出てくる。御役紫は徴税分であろうか。御買紫の値段は一歩につき一貫八百匁となっており、この仕事に三日町善四郎が当たっていた。また紫の御勘定目録が玉内七兵衛に渡されているので、藩が紫の流通に関わっていたこと、その任に玉内が当たっていたことが分かる。この年にはまた剣吉の是蔵が藍の礼金を出しているが、金額は分からない。四年には菓子屋の一郎右衛門が紫根二駄を送った。 元禄期に入ると、二年(一六八九)に八駄、三年は五駄、四年は二回に分けて二十駄を江戸へ送った。五年には藍玉二百五十箇、二千六百貫程が八戸に入荷した。この年は紫根三駄を送った。六年には「御買紫無用」ということなので、十分な徴税分があったのだろうか。しかし出荷記事はみられない。九年には紫五駄が送られ、その他に菓子屋一郎右衛門が三駄を送った。十年には十駄を四回に分けて運んでいる。十三年は八駄を送ったが、表御紫四駄とある。この年に玉内七兵衛が御免となった。十四年は十六駄を送った。十五年には御役紫御免としたのは、前年の凶作で農民が困窮したためであろう。十六年は一駄だけである。 宝永五年(一七〇八)は一駄、六年も一駄。正徳元年(一七一一)には二回で十駄を送った。三年には五駄である。享保八年(一七三三)には六日町治兵衛と八日町の九兵衛が紫四駄を江戸へ送り、礼金四両を差上げているので、一駄一両の礼金となる。十三年は六貫を浅虫に送ったのは、幕府の薬草御用にあてたものであろう。 元文五年(一七四〇)に八日町の孫兵衛と二十三日町の三右衛門から、紫根沖積出礼金が一駄につき四両では引合わないので、二両二分にしてほしいと願が出されたが、三両と決まった。沖積出というからには船便で送っていたことになろう。ただし具体的な出荷記事はみえていない。 寛保二年(一七四二)、江戸新橋次郎兵衛が百四十四貫の紫根を、また江戸の庄次右衛門が三十六貫の紫根を買付けている。江戸の商人の名がみえるのは初めてだが、これまでにみえた八戸の商人も江戸の商人から依頼されて出荷していたものと思われる。三年には大工町の清六が四駄を送っているが、一駄が四箇、一箇は九貫匁なので、一駄は三十六貫となる。また新橋の次(郎)兵衛が二百五十二貫の紫根を買付けた。久慈八日町の与惣兵衛も百八十貫匁の紫を江戸で商売した。 延享に入ると、二年(一七四五)に二十三日町の三右衛門と八日町の孫兵衛から、紫根一駄について三両の礼金で数年積出商売をやってきたが、近年はそれでは捌けないのでと礼金減額の願が出された。この礼金は紫の値段の上下には関わりなく決めたものだと、願がとり下げさせられた。この年、六日町治五平は無証文で商売をしようとして、戸閉を命ぜられた。また惣右衛門が紫根証文を受取り、陸附をしている。翌三年の「入津書上候事」によれば、染藍玉百二十俵が入荷した。また十三郎と孫兵衛が紫根商売の証文を貰っている。前年に戸閉を命ぜられた六日町治五平は七十二貫匁の紫根商売を許可された。八日町の孫兵衛も仙台商人の代人として、百八貫匁の紫根江戸商売を許可されたが、もう一件は商人名も数量も不明である。四年には、藍玉百俵が入荷した記事があり、これと並んで、「久慈ニ而作り候藍玉百個」が八戸湊へ移送された記事もあり、文面では同一物とは考えにくい。寛延三年(一七五〇)には、紫棍御礼金は去年通りとするという記事がある。 三、宝麿期の紫根妃事宝暦以前の紫根出荷をざっと見てきたが、紫根の出荷量はそれほど多いとはいえないようだ。『南部紫抄』によれば、盛岡藩では寛文二年の数量が分かっている分でも、紫根二百八十一駄、九千三百貫余を出荷している。これまでの八戸藩の最高輸出額は元禄四年の六百貫匁位であった。もっとも後述するように、船による積出しがあってもこの数字には含まれていないようである。このように紫根の出荷量、ひいては産出量に大きな差があるのは領土の広さの差であろうか。もっとも幕末近くになると、盛岡藩では幕府上納分を確保できなくなって、八戸藩領から買って間に合わせたりしたという ?。 盛岡藩では一駄は四十二貫位で、値は十両であった。寛文六年には千二百四十貫を輸出し、礼金は四十貫目一駄で一両二歩だったから、輸出金額は三百十両で、税金は四十六両であったことになる。税率は十五パーセントということになる。八戸も大体それ位であろうか。 さて、宝暦期の紫根の出荷記事をみてみよう。 宝暦元年九月廿三日 孫兵衛の名前は元文五年にみえていた。御定めの礼金とは一駄一両二歩のことであろうか。これでは引合わぬということで、享保八年の礼金と同じ額になった。礼金は陸附の礼金と船積出しの礼金とでは違うことはすでにみた通りである。 宝暦元年十月二日 前半は陸附紫の御礼金のことで一両に下げられている。後半の二両二歩というのは次の記事にもみえるように船便の礼金であろう。いずれにしても江戸で紫が安値になっているので、礼金が下げられたわけである。 宝暦三年六月廿二日 ここでも陸附の礼金と船積出しの礼金との差が出ているようだ。船便は安価に大量輸送ができるので、その分礼金が高いのであろうか。しかし船便は風向き次第で日数もかかるので、運賃コストの高い陸附が続けられていたのであろう。また二十三日町の美濃屋三右衛門は元文五年にその名がみえていたが、享保四年に盛岡から八戸に来たことになっており、明和年間には造酒業、移出入業(〆粕、魚油、味噌、根)、紫根陸付、紫根問屋、御買大豆業、質屋を営み、大塚屋、近江屋とともに沖口三店といわれていた。美濃屋の名前はまた出てくる。 宝暦五年五月五日 この後、宝暦十年までしばらく紫根出荷の記事はみられない。なんらかの理由で記録に残らなかったと考えたい。 宝暦十年九月四日 江戸での紫根の値が持直したものか、礼金は一両二歩に戻っている。ただ一駄の重量が様々なので、礼金が統一されているともいいがたい。 宝暦十一年七月廿六日 仙台へ紫根が出荷されている記事がある。この件につき、宮城県図書館に問い合わせたところ、八戸藩から紫根が移入された記録はみつからないという返事であった。しかし正徳頃から織られた仙台平には紫が使われていて、紫鍛子御打数弐間物壱巻とか紫地鍛子壱巻とかが織られたと記録されている。これに使われたのだろうか。 この後の記録は次のようになっている。 宝暦十二年六月十四日 数量が記されていないものもあり、また船積出量が分からないので、移出総量を推定できないが、礼金は一駄一両二歩のままである。城下の商人の他に、葛巻の甚助、助惣、彦七の名がみえているのは、葛巻のあたりが紫根の産地だったということだろうか。 四、紺屋灰の出荷紫は『万葉集』の中で十六百歌われているという。その中に「紫は灰さすものぞ海石榴(つば)市の八十の衢(ちまた)にあへる子や誰」という歌があり、向谷地氏はこの歌は化学的にも民俗学的にも興味を呼び起すといっている。海石榴すなわち椿の灰がここで出てくるのは、染めるペき布地は紫根液に漬ける前に、植物の灰汁で前処理しなければならないからである。この灰汁を媒染液というが、紫の場合には椿の灰が一番よいとされた。その他に「さわふたぎ」別名「にしごり(錦織木)」も使われていた。 さて今までの記事の中に藍のことがあった。紫が王者の色ならば、藍は庶民の色といえよう。藍染でもやはり木灰が使われるが、この場合にはぶなやどんぐりが使われたらしい。この木灰を紺屋灰というのは、染物というと藍染を意味する程だったからであろうが、紺屋灰の出荷の記事が宝暦時代にみられる。 宝暦四年八月十日 ( )は筆者注 五、おわりにぶな灰の礼金は百石について二両であり、積出量は分かっている分では約二百四十石である。その礼金は五両位であった。だが、この分の灰を焼出したぶな林はどれ位の広さであったろうか。わずかな礼金のために山林が裸にされていったのではないだろうか。 紫根も前に述べたように原料の出荷だけにとどまった。これは開発の遅れた地方の宿命なのだろうか。紫根出荷についてみれば、陸送の記事はかなりあったが、船による輸送の記事はまずないといってもよく、果して八戸藩で年間どれ位の出荷量があったか見当がつかない。御浦奉行の書類は『八戸市史』に記載されておらず、鮫御役所日記の安永二年、天明四年、寛政八年、文化三年の移出品には紫根は見当らない。ただ紫根の紫根の税率は定められていたから?出荷はあったことであろう。偶然に目に入ったこの頃の記事をあげる。 文化二年十二月十五日 このように紫根移出は盛んではあったが、八戸藩で紫根の栽培を奨励した様子はみられない。大蔵永常は『 広益国産考 』中で紫根の栽培法を述べているので、栽培していた地方があったようだ。「よく作りなば格外の利を得るものなれば」と彼は書加えている。当地方の唯一の農書ともいえる軽米の『 軽邑耕作鈔 』も紫根の栽培は記されていないから、栽培はされなかったと考えられるであろうか。ただし、向谷地氏は栽培が試みられたと推定されている。このあたりも解明すべき問題がある。 |