栗山光雄 |
人物志 200303 |
明治元年支配帳に内山数馬家がある。明治二年栗山に復して栗山光雄と称した。『参考諸家系図』によれば、『参考諸家系図』によれば、栗山備後利安の子栗山大膳利章を祖と伝えている。寛永九年主家黒田忠之に謀反の企てありと幕府に訴え、翌十年幕府は忠之を訊問したが、忠之には謀反の意思がないとして本領安堵、利章は盛岡に預けられ、承応元年盛岡で死去した。謫中に盛岡で生まれた三男孫之丞利政は延宝四年雖失の死後に母方の氏内山を以て召出され、合力判金一枚と蔵米十駄を宛行われ、同八年扶持方十七人扶持(高百二石)となり二百石座に据えられ宝永元年死去した。文久二年に子孫嫡子数馬(初め兵太郎、繁次郎)光雄が相続、加番組組頭を勤めた。明治二年栗山に復して栗山光雄と称した。同六年嫡子龍麿が相続、同十一年の士族明細帳によれば、当時日影門外小路十五番屋敷に住居していた。龍麿で家名は絶え、現在旧盛岡藩士桑田の権利継承者(他姓となった血脈)は東京都に在住する。歴代の墓地は盛岡市愛宕町の中台院(廃寺により恩流寺管理)にある。 |