一、秋田城介之事

秋田安東氏の由緒


安倍貞任二男安東次郎高屋、奥州津軽郡藤崎舘に住し、高星八代孫安東太郎尭恒、建長二年頼嗣将軍に謁し、其四代安東太郎貞季南朝方北畠顕家卿に従ふ。貞季長男安東太郎盛季松前に渡り下国に住し、以後下国氏を称し、二男の安東次郎庶季足利義満公に謁し、應永元年出羽に兵を出し、秋田城介顕任を討亡し秋田に移住す。秋田城介と称し南部守行公と比内に於て度々接戦、以後数代確執たり。此九代後安東太郎愛季度々南部信直公と争戦あり。後和睦、信直公姫君を以て嫡男忠次郎秀隆の内室と定む。愛季は実は国太郎舜季の男なり。秋田檜山城に住し天正十五年春病死。家督秋田忠次郎季隆、始は安東六郎業時といふ。同年秋に季隆卒。無嗣。内室は三戸に帰り檜山御前と唱ふ。元和六年七月三日於福岡城卒。号蓮生院、三戸長永寺に葬る。実は北主馬秀愛女なりといふ。秋田家は愛季の弟安東太郎を以て家督と定め、秋田城介実季と改む。天正十八年小田原参陣。秀吉公に謁し旧領五万石安堵し、朝鮮攻後手の命を蒙り渡海には及ばず。慶長五年神君に属し最上加勢に出陣。又小野寺義通、石田三成一味なる故、是を攻撃、城を乗取る。七年常陸茨城郡宍戸城五万石に移住し、大坂冬陣夏役務。寛永七年有故、勢州朝熊へ蟄居。入道梁空。配所卒。実季男秋田河内守俊季、寛永八年に家督給り、正保二年奥州田村郡三春城五万五千石に移る。其男安房守盛季なり。
愛季二男安東玄蕃英季、仕神君後任酒井忠勝。三男秋田修理進季勝仕宗家。実季二男秋田隼人季次仕神君五百石。秋田長門守季信任秀忠公。四男秋田三平季安宗家の臣。

秋田一族臣下当家召抱の人

秋田忠兵衛季邑   一族     仕利直公五百石
秋田忠兵衛季形   季邑子    二百石 八戸行帰参
秋田右京助方季   季形子    無嗣断絶
湊修理季政     一族     仕利直公五百石
湊市郎右衛門季武  修理子    三百石八戸行
五丁目兵庫親隆   本三浦氏   仕利直公五百石
八木橋左馬助茂矩  旧臣備中守子 仕信直公四十八
八木橋孫左衛門茂吉 左馬助子   二百石
八木橋藤十郎武茂  孫左衛門子  利康君殉死
佐藤小助陣赤           慶長四年仕松斎百石
佐藤権兵衛陣重   小助子    十八石七斗
佐藤重左衛門陣固  権兵衛子
成田源之丞長吉   鹿角郡荒川村浪人
成田平左衛門長知  源之丞子   松斎百石
成田兵庫助元喜   平左衛門子  没収後二百石
堀内三右衛門正康         寛永十三年五十石花巻住


奥南落穂集改題



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