戸来 へらい

戸来 守家 210131

 明治元年の支配帳に戸来 守家がある。『参考諸家系図』は戸来又左衛門国秀の二男戸来又左衛門(のち十郎左衛門)秀俊を祖と伝える。秀俊は寛文十一年に甥戸来又兵衛紀秀が家督の時、父国秀の遺言により三百石を分地せられ、者頭を勤めて元禄十三年に死去した。一説には兄又十郎秀則が家督を継ぎ、病身のため秀俊がその番代を勤め、延宝七年秀則より三百石を分地せられたという。その跡を嫡子金十郎秀顕が貞享三年部屋住で死去したので、秀俊の嫡孫で秀顕の長男又左衛門因秀が、祖父の養子となり、元禄十三年に嫡孫承祖した。者頭を勤め、享保十七年死去した。その跡を嫡子唯右衛門(のち又左衛門)秀増が相続、宝暦四年に隠居して天明元年に死去した。その跡を富田瀬兵衛勝起の二男勇之助(のち覚左衛門)秀富が養嗣子となり、宝暦六年相続した。者頭野辺地境奉行兼帯、在着使者(明和八年)を勤め、天明四年に死去した。その跡を秀増の三男で秀富の養弟甚五兵衛(のち官左衛門、又六)秀秋が筋目の嫡子となり相続した。者頭を勤め、文化五年に隠居、同八年死去した。その跡を嫡子唯吉(のち金十郎)秀親が相続、者頭として箱館勤番、のち屋敷奉行兼帯を勤めた。天保四年新田改有高二十三石六斗七升五合加増、高三百二十三石六斗七升五合となり、五戸通戸来村に二百八十五石余、、同通西越村(以上青森県新郷村)に二十二石余、残り十五石余を同通又重村(同県倉石村)に知行した。小性持筒頭兼帯、二子万丁目通代官兼帯、鬼柳黒沢尻通代官兼帯、持弓頭小性兼用人側兼帯等を勤めた。天保十年隠居、安政二年に死去した。その跡を嫡子久人(のち官左衛門)秀包が相続した。近習頭側用人表兼帯、元〆と勤め、安政二年江戸大地震の時、藩主救出の功により二百石加増、高五百石となった。同三年加判列、同年加判役、同七年加判役休息となった。大和流馬術を都築大助高安に学びその師範を相続、村松高老に伝えた。馬上で江戸愛宕山の石段を乗り上げた事でその名を知らしめた。のち命により玄淵と号し0。文久二年に隠居して静斉と号し、明治四年死去した。その跡を文久二年に嫡子守(のち感)が相続した。目付となり、戊辰戦争には沢内通の警衛に当たった。明治二年に隠居して栄樹、また松樹とも号し、同三十二年死去した。その跡を明治二年嫡子融機秀綱が相続した。同年上京して幕府の蕃所調所教授を勤めた村上英俊塾に入門、フランス学を修めた。同三年には藩士貢進生となって大学南校に入学、次いで同年大阪の開成校に移った。その後福地源一郎、箕作秋坪、中江兆民に師事。この間の同四年本姓小山氏に復して小山融機と称した。同五年陸軍省に出仕し、徴兵使書記を勤めた。同八年の官員録によれば当時十一等出仕であった。その後同十年内務省に移り戸籍局に勤務、七等属に陞級した。同十一年の士族明細帳によれば、当時向中野村(盛岡市)三十番屋敷に住所があった。同年東京で死去。享年二十九歳の早世であった。二弟の美武は明治中に盛岡弁護士会長を勤めた。その子芳太郎は海軍大学を卒業して少将まで陞進した。融機の四妹ふくは華頂宮家に仕え、同家の援助によりアメリカ留学をし、帰国後函館遺愛女学校、静岡高等女学校で英語教師を勤めた。融機の跡を父感が再当主、その跡を嫡孫承祖、孫の陽吉が相続した。仙台税務管理局に勤務し、のちその蔵書を母校の明治学院大学に寄贈。小山陽吉文庫として同学にあったが、関東大震災で灰塵に帰したという。陽吉の跡を長女春江が相続、次いで花巻の菊池準一の四男四知郎と結婚し四知郎がその跡を相続した。四知郎は岩手県立盛岡商業学校の教師となり、昭和十九年死去。学校葬の礼を以て先祖代々の墓地に埋葬された。春江の三妹幸子は京都同志社大学英文科を卒業後女学校教諭となり、後年藍綬褒章を授けられた。四知郎の跡を継いだ長男で当主の寛は、陸上自衛隊仙台地方病院長を勤め、現在宮城県に在住する。歴代の墓地は盛岡市材木町の永祥院にある。


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