南部 なんぶ |
中野家 南部吉兵衛家 |
明治元年支配帳に御三家・南部吉兵衛家が見える。『参考諸家系図』は南部家初代光行の五男九戸出雲行連を遠祖とし、行連から十代の孫九戸右京信仲の四男中野修理直康を祖と伝える。九戸を参照、文政元年、筑後康孝の代に南部氏に改めた。所伝によれば、直康は天正の頃、九戸氏を称して二十四代晴政に仕えたが、主命により志和郡主斯波民部太輔詮真の女婿となり志和郡高田村(矢巾町)を知行、高田吉兵衛と称した。後に主家詮真との間に確執が生じ三戸に帰参。二十六代信直に起用され天正十四年斯波領に境する岩手郡中野村(盛岡市)に千石を知行。この時中野城を守衛し、在名により中野修理と改めた。同十六年その知略によって斯波氏を滅亡せしめ、その論功賞として二千五百石を加増せられ、前に合わせて三千五百石を知行。志和郡片寄村(紫波町)の今崎城に移った。同十九年実兄九戸政実の一揆に豊臣秀吉は奥州仕置最後の討伐戦を作戦した。直康は終始一貫して三戸の信直に属し、浅野長政、蒲生秀郷など豊臣軍の諸将を嚮導し忠勤した。戦後兄政実を初め戦死した諸将兵士の菩提を弔うために一寺建立を願い出て他の恩賞に預かることを辞退、これにより信任を得たと伝えられ、以降、八戸家(のち南部氏)、北家(のち南部氏)と共に三家と称され権勢を振い繁栄した。文禄三年従弟九戸隠岐に殺害された。直康に男子二人あり、長男は高田弥七康仲といい、次男吉兵衛が嫡子として養育せられ、殿上元服をしている。九戸隠岐の変に際して、同席の直正が即時に父の仇を討ち取り、主命により遺領の内三千石を相続。兄高田弥七康仲はこの時五百石を以て分家せられた。慶長五年出羽最上の陣に私兵を率いて従軍。同年和賀郡岩崎に和賀主馬の一揆が起こり帰国して和賀の陣及び翌六年の再陣に従軍した。同十四年岩手郡中野村、津志田村(盛岡市)志和郡徳田村高田村(以上矢巾町)の八百三十九石五斗六升八合を志和郡肥爪村片寄村(以上紫波町)に知行替せられ、更に同十七年知行割替が在り、同郡肥爪村片寄村高水寺村(以上紫波町)に三千百石を知行した。同十九年の大坂夏の陣に従軍。のち郡山城に移り、寛永元年同城で死去した。その跡を嫡子弥十郎(のち吉兵衛)元康が相続、幼少のため千石預りで二千石を知行、同十年三千石に復した。この年幕府の証人番が始まり、八戸弥六郎、北九兵衛と倶に寛文五年の同制度廃止まで輪番勤務した。同十一年将軍上洛に供、寛文九年死去した。遺跡を嫡子伊織(のち吉兵衛)直保が相続、延宝三年鹿角郡花輪城代となり秋田境を警衛、以降世襲となった。この時采地を鹿角郡花輪村(秋田県鹿角市)及びその近傍の村に知行替せられた。同年新田出目高四百石を加増。貞享四年これを四男千弥康全に分地した。元禄二年隠居して独円と号し、同四年死去した。その跡を吉兵衛永州が同二年に相続した。初め二男を以て分家中野忠兵衛康忠の養子となり延宝四年その家を相続したが、のち実兄守利が病気退嫡に伴い、家に帰って父直保の嫡子となり家督を継いだ。同八年家老見習、翌九年加判役(家老)となり、元禄十五年信恩襲封の時、北九兵衛栄継、桜庭十郎右衛門憲統と倶に従う家老三人の一人として将軍綱吉に謁した。宝永五年利幹襲封の時には、漆戸甚左衛門茂英、奥瀬伊右衛門定之と従う家老三人の一人として、この時も綱吉に謁した。同年幕府の江戸代官町地形普請手伝に大奉行を勤めた。正徳元年願いにより本知の内花輪村を返上、志和郡彦部村(紫波町)、稗貫郡大田村(花巻市)に知行替せられた。この時花輪城代秋田境を預りを解かれた。同二年病により退役した。正徳三年に隠居、剃髪して浄山と号した。延享三年死去した。その跡を嫡子伝三郎(のち伊織、対馬、筑後、吉兵衛)光康が相続。享保二年加判役となり、同九年倹約惣司を勤めた。享保十年利視襲封の時、楢山文左衛門敬明、松岡藤右衛門高忠と倶に随身家老三人の一人として将軍吉宗に謁した。同十一年向中野通本宮村(盛岡市)に四百石、大槌通山田村(山田町)に百石加増、三千石(五百石減少の時期未詳)となった。同十四年花輪城代秋田境を預かった。同十五年幕府より虎瀬川普請に当り領地所務の百ヶ一の借上令があり、二百石を返上して残り二千八百石となった。同二十年一代の格式をもって二本道具が許された。射撃を嗜み、平山兵衛の門人となり、雪下流の奥義を極めたという。寛保元年死去した。その跡を嫡子伝三郎(のち筑後)康貞が相続した。宝暦九年死去した。その跡を実弟定右衛門康教の長男政之助(のち基地兵衛)康敬が末期養子となり相続した。康致とも称した。明和三年高二百石を実弟中野午之丞(のち吉左衛門)康房に分知、高二千六百石となった。三家家格中野南部家は花輪城代として秋田境の警衛、城下では盛岡城内城の主門・大手門、日影門と並ぶ三御門の一門・中の橋門の警衛を任務とした。康敬場合を例としてみれば、宝暦九年に家督を相続、同十年火消役、同年七月から中の橋門警衛、同十一・十二年中の橋門、同十三年火消役、同十四年中の橋門、明和二年中の橋門、明和三・四年火消役、同五・六・七年中の橋門と勤め、同年加判役となり、翌八年死去した。その任務に当たる家士総数は、明治二年同家支配帳によれば百十八人。支給総高千六百六十五石余と見える。その跡を実弟吉左衛門(のち筑後)康房が末期養子となり順相続した。この時明和三年に亡兄より分知せられた高二百石を持ち込み高二千八百石となった。寛政二年席詰となった。藩主利敬が同七年に襲封の後初めて登城の時、奥瀬要人嵩尹、奥瀬周防定至と倶に従う家老三人の一人として、将軍家斎に謁し、同年退役した。文化五年再び席詰に復職、同九年二百石加増、高三千石となった。文化十年分家中野斎宮が重死により家禄二百石が没収となり、本家に返され高三千二百石となった。同十三年隠居して静山と号したが、隠居後に於いても家老部屋に隔日出仕することとされた。文政四年死去した。その後を文化十三年に嫡子出雲(のち筑後)康孝が相続した。初め部屋住で文化十三年部屋住で席詰(家老)となり、その数日後に家督を継いだ。文政元年南部氏に復して、南部筑後康孝と称した。以後当主および嫡子嫡孫は南部氏を称した。同四年病により席詰を退役、同五年亡中野斎宮の家の家名立が許され、その子弓治に二百石を再分知、高三千石となった。同七年三たび席詰となり、同八年退役した。天保七年隠居、同十一年死去した。その跡を天保七年に嫡子午之丞(のち吉兵衛)済徳愛が相続した。のち済愛と改めた。部屋住で側詰となり、家督後、同十二年亡父の罪により身帯のうち三ヶ一を金方に色替の上知行替せられ、家座を南部土佐の次席、三家家格三席に据えられた。この時同家家老清水喜左衛門が切腹して主家の危機を救ったという。登礎草紙に忠臣美談として記載されている。嘉永元年加判役近習頭兼となり、同六年休息。同年老中となり、翌七年領分海岸備頭を兼帯、次いで安政二年再び加判役となった。又同年身帯のうち金方千石を地方に色替、采地を元に復し、家座も旧の通り三家家格二席に復した。文久二年退役した。慶応三年新田披立高を加増、高三千三百六十八石三斗七升六合となり、戊辰戦争鹿角口の戦の時、境警衛総裁となった。明治二年行政(家老)兼家令となったが、翌三年隠居、同十年死去した。その跡を嫡子虎次郎康彊が相続、同五年死去。その跡を次弟米次郎康直、三弟直次郎康保と兄弟で順相続した後、大正十一年に康直の外孫太田昌が相続した。当主南部チヨは埼玉県に在住する。代々の墓地は盛岡市北山の報恩寺および旧采地秋田県鹿角市の長年寺、紫波町郡山の長岩寺、同町彦部の長興寺にある。分流に中野のほか高田、辛氏などがある。高三千三百六十八石三斗七升六合の采地は、千六百八十六石余を花輪通花輪村に、二百石を同通三ヶ田村に、百三石余を同通高屋村に、二十一石余を毛馬内通柴内村に、四十六石余を同通鶴田村(以上秋田県鹿角市)に、二百七十七石余を向中野通本宮村に、十六石余を飯岡通下太田村に、二十六石余を飯岡通下鹿妻村(以上盛岡市)に、六百三十八石余を長岡通彦部村(紫波町)に、五十七石余を八幡通瀧田村(石鳥谷町)に、百二十四石余を沼宮内通寄木村に、五十五石余を沼宮内通松尾村に、六十九石余を沼宮内通野駄村(以上西根町)に、四十六石余を三戸通斗内村(青森県三戸町)に知行した。 もとに戻る こもんじょ館の詳細系図はこちら その他詳細はこちらを参照 諸士リスト(な行) 盛岡藩士の家系メインリスト |