長瀬 ながせ

長瀬治兵衛家 200905101440


 明治元年の支配帳に盛岡藩抱えの相撲行司を務めた長瀬治兵衛家がある。『参考諸家系図』は、長瀬治郎左衛門道武を祖と伝える。道武は家伝によれば、初め阿部氏を名乗り、善左衛門(出自不明・本家ヵ)の門人となり、天正十一年に十六歳の時、行司道角力節会を執り行ったと伝え、万治三年九十二歳で死去したとも伝える。万治三年であれば九十三歳、九十二歳ならば万治二年の死となる。その跡、二代目忠太郎道房(のち伝左衛門)が相続。相撲御用を勤め、のち雄翁と名を拝領、元禄二年死去した。三代目を伝之輔道豊(上田助右衛門の二男、のち治左衛門、正徳三年に六十八歳で死去)、四代目を与之助道重(のち小平次、享保二年に死去)五代目善次郎道政(のち門太郎、治兵衛)と相続。享保十七年本家長瀬越後に同道して京・大坂に従い、相撲行司を勤めた。帰国の後一生の内給人格表刀差となり、元文五年八十六歳で死去した。その跡を六代目門次郎道定(のち治兵衛)が相続、宝暦三年一生の内表刀差、寛政二年永く刀差となり、文化元年八十五歳で死去した。その跡を七代目門次郎道忠(のち伊助、文化七年隠居、文政八年に六十一歳で死去)、八代目与七道広(南彦八郎の家士山崎徳右衛門の二男、のち与兵衛、与作、文政十二年死去)、九代目栄助道垣(のち忠右衛門、伝平、治兵衛)と相続。天保十年に一生給人、同十二年に永く給人となった。のち勘定奉行を勤め、慶応元年物価高騰により安定するまで本高同様の手当米十八石を給せられ、手当米ともで三駄四人扶持(高三十石)の実収となった。明治三年に隠居。寿山と号し、同三十六年に死去した。十代目は徳太郎(佐藤治右衛門の二男、のち健治)が相続、明治十一年の士族明細帳によれば、上田村(盛岡市)三百五十七番屋敷に住居と見える。「覚書」慶応二年二月三日条に「(治兵衛に)男子なく、遠親類大槌御給人貫洞後藤兵衛弟五玄・鯡四椹辧廚箸靴憧蠅そ弌⊆・・気譴討い襪・・゙玄・判渋緻榮疎析困箸隆愀犬鰐ぞ棔・修寮廚鯑残尚貽酸気帆蠡魁・・腓竜・劼論慌・圓忘濬擦垢襦N鯊紊諒菽呂論慌・圈δ江庄,砲△襦」

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