中野 なかの

中野舎人家

 
明治元年支配帳に中野舎人家がある。『参考諸家系図』によれば、中野吉兵衛康致の六男弥兵衛康金を祖と伝える。康金は貞享五年二月父康致から知行切添新田の打ち出し四百石を分地され一家を興し、御新丸御番頭家格に据られた。正徳三年隠居して正林と号し、享保十四年死去した。その跡を嫡子安之助(のち弥兵衛)康常が相続。享保十九年に隠居して、一夢と号し、元文五年死去した。その跡を享保十九年に嫡子三五郎(のち右兵衛)康邦が相続。御新丸御番頭を勤め、安永七年に死去した。家督は八戸弥六郎義顔の三男易人康顔が末期養子となり相続。用人を勤め、天明元年死去した。その後を同族辛文七康永の二男恕右衛門康命が末期養子となり相続した。御新丸御番頭を勤め、同四年に隠居し、同八年死去した。その跡を東中務政隆の二男源吾(のち舎人)康行が養嗣子となり相続した。用人兼帯花巻城代を勤め、また「盛岡藩古武道史」によれば、心眼流剣術を米内伝左衛門秀政に師事して奥義を極め、師範を勤めたと見える。なお「武家諸系」によれば、康行は無く、同苗中野要人寛長で見える。「諸師範流祖書上」には要人とあり、要人(寛長)であれば中野主馬家。「武家諸系」は何かの勘違いをしているらしい。天保五年に隠居して祐山と号し、同年死去した。その跡を嫡子久米(のち舎人)康貞が相続。新番組番頭を勤め、弘化二年に隠居して嘉永四年に死去した。その跡を弘化二年に嫡子三五郎(のち舎人、友衛)康長が相続した。新番組番頭、用人兼帯花巻城代、近習頭を勤め、明治元年十二月加判役(家老)となり友衛と名を拝領した。同二年盛岡藩少参事兼民事督務、同三年南部利恭家令となる。その跡を三五郎が相続。同十一年の士族明細帳によれば、新庄村(盛岡市)百番屋敷に住居と見える。その後家名は絶え、他姓となった子孫は花巻市に在住する。歴代の墓地は盛岡市北山の報恩寺にある。高四百石の采地は、百石余を沼宮内通寄木村(八幡平市)に、二百石余を寺林通湯本村に、九十九石余を二子通北笹間村(以上花巻市)に知行した。

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