杤内 とちない

杤内兵蔵家

 明治元年の支配帳に杤内兵蔵家がある。『参考諸家系図』は杤内平右衛門吉辰長男杤内平右衛門吉保を祖と伝える。吉保は幼名虎之助、はじめ意清と見えるが、太田代直蔵家の譜には清保で見える。父吉辰が某年に罪を得て失禄、浪士(寛文十一年再出仕)となったなったが、その後、太田代兵右衛門清邑の養子となり、延宝二年、その家の家督を相続、各地代官を勤めて宝永元年に隠居。同六年隠居料十人扶持(高六十石)を食して舫奉行となり、のち勘定頭、次に元〆を勤めて正徳六年に十人加扶持。併せて二十人扶持(高百二十石)となり、享保二年その禄を以て更に召出され、命により杤内氏に復して一家を興した。同三年五十七歳で死去した。太田代氏の家督は吉保の弟で父の家督を嗣いだ平右衛門吉広の長男弥惣清達が相続。杤内氏の家督は清達の三弟助三郎吉邦が享保三年に養子となり翌四年に相続、元文元年死去した。その跡を兵次郎吉紀(のち平左衛門、平兵衛)が六歳で相続、「参考諸家系図」は安永三年二月十日死、四十六とあるが、「御番割遠近帳」は、その死を安永二年二月九日に作り、墓碑の確認は行っていないものの、記録の信頼性から推して後者が正しいのではなかろうか。その跡を兵蔵(のち兵右衛門)が相続。雫石橋場番人を勤め、文政十三年に死去した。その跡を嗣いだ嫡子長平は、武具奉行・徒頭当分・目付当分・定取次・中丸番子組頭・武具奉行加を勤めて嘉永三年に死去。その跡を兵蔵吉孝が相続。「御番割遠近帳」には相続の日を嘉永四年八月十三日とし、明治三年「士族明細帳」は同年十月四日、三十歳に作る。先代兵右衛門の忌日が嘉永四年八月十三日である事から勘考して「士族明細帳」が云う同年十月四日説に歩があるのではなかろうか。座敷奉行を勤めている。明治十年「士族明細帳」は、吉孝三十六歳六ヶ月とし、浅岸村三十五番屋敷に居住と伝える。なお、同帳には記載する家督相続の日は嘉永七年十月四日とあり、ここでは諸説錯綜していること紹介しておくことに止める。吉孝の跡は吉次━鉱吉と相続、当主の吉征は盛岡市に在住する。


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