下田 しもだ

下田将監家


明治元年支配帳に高知・下田将監家がある。『参考諸家系図』によれば、南河内守直政の六男下田将監直徳を祖と伝える。直徳は寛永元年兄下田治太夫直勝より三百石を分地されて家を興した。御目付、御者頭、花巻郡代兼帯を勤め、万治二年死去した。その跡を嫡子権右衛門征政が相続。部屋住の内から小性を勤め、家督の後御持筒頭、御用人を勤めた。なお、寛文の初め用人を以て世子行信の傅役を勤めている。同八年百石加増、高四百石となった。延宝四年加判役(家老)となり、この年高知家格となった。同六年百石、同七年足高新田百十七石七斗四升九合、貞享三年百八十石と加増、合計七百九十七石七斗四升九合となり、八百石の軍役を務め、元禄十五年死去した。世子行信の信任厚く末期の病床を見舞ったと伝える。その跡を嫡子権兵衛政因が相続、御側頭を勤めた。寛延二年に隠居して常翁と号し同四年死去した。その跡を嫡子権太夫(のち権右衛門)政愛が相続。明和七年嫡子登為政が部屋住で父に先立ち死去。これにより三男為政(鉄弥のち重蔵)を嫡子、その子秀虎(幼名惣八郎、のち惣八)が嫡孫となった。政愛は天明元年に隠居、勇翁と号して天明二年死去。その跡を天明元年に嫡子為政(重蔵のち證券)が相続して御者頭、中丸御番頭を勤め、寛政六年死去した。その跡を嫡子秀虎(惣八、家督の後、権兵衛・将監)が相続した。中丸御番頭、蝦夷地大御番頭、国後詰御備頭となり、択捉島まで廻島警備の任にあたった。後醍醐天皇が箱崎八幡宮に敵国降伏の額を懸け祈願した故事に習い、文化八年盛岡藩陣屋振別の社に敵国降伏の額を奉納し国家の安泰を祈願した。同年国後にてロシア艦の砲撃を受けたが、砲戦の末敗走せしめた。この時大砲を操縦したのは、石井熊太光海と老猟師某であったという。秀虎は敵弾のため陣羽織を射抜かれたが無傷であった。柳生心眼流甲胄伝を勝田市郎左衛門に受け、高橋次郎左衛門(人物志)、又は新渡戸十次郎常訓(武家諸系)に伝えた。西洋流砲術を高島秋帆に学び、盛岡藩初代師範となり、嗣子秀実に伝えた。碑文によれば、砲術、調練ともに非凡の誉高く、一藩の銃隊を率いて名声を挙げた人物であった。天保十一年に隠居、空来と号し、弘化四年死去した。その跡を嫡子要人(のち将監、立)秀実が相続、のち蝦夷地大御番頭、国後詰御備頭となり、択捉島まで廻島警備の任にあたった。明治三年(明治四年士族明細帳)又は同六年(明治十一年士族明細帳)に隠居。同十七年死去した。その跡を養嗣子民吉が相続した。同十一年の士族明細帳によれば、鷹匠小路八十四番屋敷に住居と見える。歴代の墓地は盛岡市愛宕町の恩流寺、青森県おいらせ町(旧下田町)正福寺の方が菩提寺にある。高八百石の采地は、三百八十石余を五戸通下田村(青森県十和田湖町)に、十石を同通犬落瀬村(同県六戸町)に、九十石を同通石沢村(同県倉石村)に、九十二石を同通扇田村(同県五戸町)に、十六石余を花輪通松館村(秋田県鹿角市)に、六石を沼宮内通永井村(玉山村)に、九十七石余を寺林通富沢村に、二石余を同通大興寺村(以上石鳥谷町)に、百石余を二子通轟木村(花巻市)に食邑した。


盛岡市中央公民館所蔵 南部家旧蔵記録

諸士リスト(さ行)

盛岡藩士の家系メインリスト


一覧にもどる