猿賀 さるが

猿賀大八家 210121

 明治元年の支配帳に猿賀大八家がある。『参考諸家系図』は猿賀喜斉を祖と伝える。喜斉は南部利直に仕え五十石を領して馬廻を勤めた、その子伊助は利直の治世に父の家督を相続、花巻城代南部彦九郎政直に仕えた。伊助は寛永元年政直の没後、花巻給人となるが、のち禄を失い浪人となった。その後更に召出されて四駄二人扶持(高二十石)を食んで寛文十一年死去した。その子弥十郎は寛文十一年に家督を相続、この時盛岡支配となり山奉行を勤めた。その跡を上野久兵衛宣門が養嗣子となり相続した。大槌山田住居浪人上野太郎右衛門の弟と伝える。享保の頃部屋住で江戸に登り台所を勤め、のち藩主利幹姉牧野河内守英成(丹後田邉三万五千石城主)室附役となり、麻布広尾の牧野邸に勤めて、江戸定府となり同六年部屋住料三人扶持を給せられた。その直後同年に家督を相続したが、家禄四駄二人扶持に部屋住料三人扶持を合わせ、四駄五人扶持(高三十八石)を給与せられた。また同年利幹姉妙雲院(八戸藩主南部遠江守直政室)附人となり、八戸藩邸・市兵衛町邸に勤めた。同七年前禄を停めて加増あり金方五十石となった。同八年五人加扶持、高八十石となり、同十一年金方五十石を地方に色替され、同十四年死去した。その跡を上野太郎右衛門の子で宣門の実甥久兵衛宣貢が養嗣子となり相続した。宣貢は幼少より上野氏で養われ、初め享保十二年に上野氏で召出され、江戸にて家老次、のち使者給仕を勤めた。同十四年に末期の養子となり、養父の家督を相続した。同十五年盛岡に移住、歩行火の廻、先供、別段廻、八幡通代官、雫石通代官、見前通代官、徳田伝法寺通代官、福岡通代官を歴任して安永元年死去した。その跡を嫡子久太夫(のち久兵衛、弥五左衛門)宣魏が相続した。沢内越中畑番所番人、廻役を勤めた。武術に秀で、柳生流剣術師範を阿部忠慶より受けて横沢惣兵衛茂備に継承。享和三年死去した。しかし、嫡子久之進も後を追うように死去。重死の大法により家名断絶となった。のち文化二年家名立が許され、久之進の遺児栄吉慶備(のち久兵衛)が三人扶持(高十八石)で召出された。柳生流剣術を藤井孫右衛門政力に学んで同流師範となり、中村九郎右衛門義教に継承、元治元年死去した。その跡を嫡子弥十郎が相続した。慶応元年物価高騰により安定するまで本高同様の手当米十二石を給せられ、手当米ともで三駄四人扶持(高三十石)が実収となった。その跡を同三年嫡子大八宣巳が相続、明治初年織田大八、のち織田宣巳と改名した。同十一年の士族明細帳によれば、東中野村(盛岡市)二百五十番屋敷に住居と見える。その跡を宣得━秀二━モトと相続、その跡を継いだ久夫は神奈川県に在住する。歴代の墓地は盛岡市名須川町の東顕寺にある。


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