佐羽内 さばない |
佐羽内源内家 200915 |
明治元年支配帳に佐羽内源内家がある。『参考諸家系図』によれば、佐々木能登義春の三男佐羽内仁兵衛を祖とする佐羽内家がある。義春は本国を近江国(滋賀県)成田と伝え、武者修行をして諸国を巡歴し、三戸(青森県)に来住したが、永禄のころ三戸蓑ケ坂で野武士の集団に殺害された。その子仁兵衛は長兄上斗米左京・二兄村田(のち朽内)右京と共に、浄法寺村(二戸市浄法寺)福蔵寺に寄居した。南
部信直の代に、世子利直が狩りをして福蔵寺に小休した時、兄弟二人が給仕役を務め、住職の執りなしにより、後日召し出すことが約束された。慶長年間長兄左京は二戸郡上斗米村(二戸市)に二百石をもって召し出され、二兄右京は初め二戸郡に二百石、のち六十石を加増、二百六十石となった。この時、知行替があり、紫波郡初内村(紫波町)の一部を領し、朽内氏を称した。仁兵衛は三戸田子村のうち佐羽内村(青森県)に三百石を領し、在名により佐羽内氏を称した。先手役を務めたが、のち禄を失い浪人となり、明暦三年死去した。異説があり、『鹿角志』によれば、南部右馬頭政康の五男毛馬内靱負(三千十八石)の御附人として毛馬内(秋田県鹿角市)に入った。後、同家の家臣となり、その裔は今日に至るまで鏡田村(秋田県鹿角市鏡田)に居住し、右證文を猶所有せりとあり、次の知行證文を伝蔵すると伝える。
糠部郡浄法寺之内駒ヶ嶺に於て三百石遣候
慶長六年十一月廿三日 利直 印
佐羽内仁兵衛
長男仁兵衛久茂は父失禄後(『参考諸家系図』のまま)、花巻に移住。のち花巻城代南部彦九郎政直に召し出され、地方五十石を領した。現に鹿角市に住居する佐羽内氏は久茂兄弟の末裔ヵは確認して居ない。久茂はのち馬術で盛岡に召し出され、現米五十石加増され、高百石となり、厩預を務め、寛文四年死去した。その子与七胤高が同年相続した。幼少のため従兄佐羽内仁兵衛茂忠が番代を務めた。のち馬別当となり、元禄四年隠居した。その跡は与惣右衛門祖恭(茂忠の次男、桜馬場馬別当など、延享四年没)―備吉中(佐羽内九郎治―明の次男で祖恭の甥)と続いた。備吉中は初め部屋住で側役を務め、部屋住料現米五十石を給された。元文二年家督の時、部屋住料を加増され、百石となった。曽祖父久茂の時にすでに百石を領したとされるが、のちの五十石減高の有無、あったとしてもその時期は未詳。武具奉行などを務め、明和五年死去した。その跡九郎七(のち備・惣右衛門、寛政十三年隠居)―都合(福岡通代官など)と続いた。その跡を嫡子栄左衛門(のち源内)が相続した。天保十年の諸士給知行平年所務書上によれば、栄左衛門は高百石のうち五十石を高木通中内村(東和町)に領し、残り五十石は現米を禄したと見える。この時すでに栄左衛門の家督が知られる。その跡を明治三年嫡子都合吉光が相続、同十一年の士族明細帳によれば、浅岸村(盛岡市)六十四番屋敷に居住していた。その跡を孫吉雄―吉定―仁と継いで、現当主博は盛岡市に在住する。
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