佐々木 ささき

佐々木直作家

 明治元年支配帳に佐々木直作家がある。『参考諸家系図』によれば板垣伴内を祖と伝える。先祖は建久二年に南部光行に従って、甲斐(山梨県)より糠部に来たと伝える甲州譜代。伴内は初め利直に仕えたが、のち罪を蒙って失禄、浪人となった。その後、嗣子伴内(二代目)、その子甚内、その子万右衛門政次と、何れも浪人で一生を終えた。政次は元禄中三戸で死去したという。その子甚内政清は三戸に住居し、母方の叔父三戸給人佐々木某の家名を譲り受けて佐々木氏に改めた。のち、藩主利幹の治世に徒に召出され、六駄二人扶持(高二十四石)を拝領、享保十九年死去した。その跡を二弟権三郎(のち権太夫、権右衛門)━権之助(のち権右衛門、権七、安永二年死去)━蛇口孫四郎(三戸主水家士)の弟亥四郎(のち権七、伊兵衛、文化八年隠居後権右衛門、文化十年死去)━久保要作(向井定右衛門家士)の三男源吉登政(徒目付、弘化二年死去)━直作政純と継いだ。政純は字を子得、子満。直作、羊我、直斉と号した。初め沢出椿庵に学び、のち東条一堂の瑤池塾に入り漢学を収めた。嘉永三年侍講に任用され助教となり、次いで同六年永く給人に召出され士班に列した。毛馬内通代官、目付、郡奉行格勘定奉行諸代官頭取兼帯を勤め、明治元年戊辰戦争の後、楢山佐渡、江ばた(巾篇に者)五郎と倶に罪を問われ、官軍に引き渡されて南部家麻布邸、次いで福井松平家邸に幽閉された。この間に、明治二年六月楢山佐渡は盛岡に移され、北山報恩寺で刎首の刑に処せられた。江ばた(巾篇に者)と政純の幽閉は、秋田藩に対する宣戦布告文が二人の合作とする嫌疑によるもの。明治二年一命を保ち、草葉に隠れるとして桑蔭を号し沼宮内在に隠棲した。同四年板垣に復し同二十七年死去した。その跡を嫡子太郎政徳が明治二年に相続。近侍、大得業生舎長兼務などを勤めた。同十一年の士族明細帳には、五日市村(岩手町)十番屋敷に住居(伝存)と見える。郡長、女学校長等を勤めた。その子に政一があり、弟に極東国際軍事裁判で死刑を宣告され昭和二十三年死刑となった陸軍大将板垣征四郎(後述)がある。政一の跡を賛造━進吾と継ぎ、当主の禎子氏は北海道に在住する。歴代の墓地は盛岡市北山の法華寺にある。

征四郎は盛岡中学、仙台地方幼年学校を経て、明治三十七年陸軍仕官学校を卒業、直ちに歩兵少尉、四連隊付として日露戦争に出征した。大正五年陸軍大学校を卒業して翌年参謀本部支那課に入り、同八年漢口派遣隊に勤務した。以来陸軍の中国情報専門家としての道を進んだ。昭和四年関東軍高級参謀として満洲に赴任、同六年満洲国を独立させた。同七年少将に昇進したが、満洲国執政顧問、軍政部最高顧問を歴任して満洲国の育成に当たるとともに、同九年関東軍参謀副長、同十一年関東軍参謀長、次いで十二年第五師団長として華北に作戦。同十三年日中戦争の早期集結を意図した近衛内閣、次いで平沼内閣の陸軍大臣件対満事務局総裁に就任した。しかし軍政経験の乏しい陸相は、何らなすところなく退陣、同十四年中国派遣軍総参謀長に転出した。同十六年陸軍大将、朝鮮軍司令官、同十八年軍事参事官、同二十年在シンガポール第七方面司令官となった。意見の別れる処であるが、板垣、石原莞爾らの満洲独立に向けた志は間違っても侵略のための建国ではなかったのだがと、板垣を知る金子定一(中将)は「東条・板垣言行側面記」で回顧している。


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