小田代 こだしろ

小田代泰四郎家 210126

 明治元年の支配帳に小田代泰四郎家がある。『参考諸家系図』は小田代軍左衛門を祖と伝える。軍左衛門は藩主重信の治世に、七戸喜庵英信(重信五男)の家臣となり、四駄二人扶持(高二十石)を食んだ。その子庄兵衛定義(のち軍左衛門)は家督後、享保十六年に主家英信の死去により表に召出され、二人扶持(高十二石)となった。その跡を源次郎定喬(実、佐々木源吉広致の二男、のち軍左衛門、作兵衛)が相続。牛馬所物書、下野(栃木県)日光本坊修復普請手伝惣奉行所物書(宝暦三年)、用人所物書を勤めた。この間の宝暦七年に二駄加増、合わせて二駄二人扶持(高十六石)となり、安永四年死去した。その跡を嫡子源次郎(のち源蔵、作兵衛、善弥)が相続。文化十二年に三駄加増、五駄二人扶持(高二十二石)となった。物書、毛馬内蔵奉行を勤め、文政十年に隠居した。その跡を嫡子小太郎(のち善弥、源次郎、小性、嘉永四年死去)━恭四郎と相続。恭四郎は御番割遠近帳によれば、嘉永五年の家督。明治四年及び同十一年の士族明細帳は嘉永四年としている。先代の死去が四年十二月下旬であることから勘考して、御番割遠近帳説が正しいであろう。物書、納戸を勤め、慶応元年物価高騰により安定するまで本高同様の手当米八石を給せられ、手当米ともで三駄四人扶持(高三十石)の実収となった。維新後、本姓に復して岡山庚、次いで岡山恭蔵と改名した。明治八年士族明細帳によれば第一大区第一小区大沢川原に居住と見える。

諸士リスト(く?こ)

 盛岡藩士の家系メインリスト


一覧にもどる