小枝指 こえさし |
小枝指柳五郎家 230203 |
明治元年の支配帳に小枝指柳五郎家がある。『参考諸家系図』は小枝指左馬助(宗元)を祖と伝える。宗元は鹿角郡小枝指村(秋田県鹿角市小枝指)に居住、その在名により氏とした。 『津軽一統誌』に天文十五年遺文として所載の郡中苗字に「奈良は大湯、小坂、小平、小江刺(小枝指)四人に分る云々」とあり、鹿角の国人奈良氏の分流と伝える。(『参考諸家系図』は安保氏に作る)天文末年から永禄年間ころにかけて、三戸南部氏と檜山安東氏が鹿角を草苅場として争奪戦を繰り広げた際、大方の鹿角の諸士が安来氏になびく時でも、宗元は一貫して南部方であった。天正十九年の九戸政実の一揆でも、信直方として終始した。その跡は小次郎知宗一又左衛門茂宗と継ぐ。なお、慶長六年和賀岩崎陣に従軍した中に、小枝指小三郎がいるが、その系は不明。茂宗の跡は小右衛門宗勝一権兵衛宗良と続く。元和二年に三〇石加増、高五三〇石となり、花輪通代官・大目付などを務めたが、『参考諸家系図』は、のち罪を被り禄を収められたと伝えている。『雑書』によれば、宗良の名は嫡子と推定される甚九郎と並記された正保五(慶安元)年を境に消え、その後は甚九郎と同一人か、五左衛門次いで又左衛門が出羽秋田の墳論での対応者として慶安初年から活躍し、激務の中に承応三年死去したことが確認される。このほか諸資料を勘案すると、『参考諸家系図』が、寛文年間小枝指村に知行新田五〇石禄したと伝える。宗良の跡の又左衛門宗嘉は、宗良の子でなく孫で、処分対象者を宗嘉と断言できないが、収禄事件は嫡子と推測される又左衛門死去の承応三年以降、宗嘉と推測される清兵衛が台所役を務めだす寛文二年以前に起きたと思われる。宗嘉の跡は清兵衛能宗(のち又左衛門、天和二年に花輪通代官として散見するからそれ以前の相続と知られる、延宝六年足高新田五〇石を知行、元禄五年に一〇〇石加増で高二〇〇石、毛馬内通代官を経て元禄五年より御者頭となり、鹿角郡代など、宝永六年隠居して宗閑と号す)一 専右衛門宗弘(のち又右衛門、鹿角境奉行など、享保八年没)と継ぐ。その跡を宗弘の甥、同苗の小枝指金助宗真の嫡男金助宗明(のち伝兵衛)が末期相続した。宗明は享保七年に実父宗真の家督を相続したが、翌八年にその禄を返上して本家に入り、従兄宗弘の家督を相続した。御持筒頭・野辺地御境御用兼帯、のち鹿角御境御用加役、野辺地通代官などを歴任。この間享保十九年に野竿新田五〇石を知行、のち寛保元年に披立成して検地改有高五三石三斗九升七合を加増、高二五三石三斗九升七合となり、同年死去した。その跡は津島武左衛門幸言の次男清太夫旨武(のち清兵衛・伊左衛門)が養子となったが、養父に実子伝次郎旨休が生まれたため、家督相続時、清太夫旨休に高五〇石を分知、残り高二〇三石三斗九升七合となった。花輪通代官などを歴任、安永八年に隠居、松岩と号した。その跡は与市(のち市左衛門、天明四年隠居、享和三年没)一牧人(松岡左司馬忠広の子、座敷奉行表給仕舞台奉行兼帯、寛政三年没)一与六(のち伊左衛門・伝兵衛・清右衛門・良右衛門、市左衛門の実子、三戸通代官など、天保十五年隠居して遊管と号し、嘉永四年没)一伝兵衛(牧人の実子、中丸番子組頭など)と継ぐ。嘉永元年次男良助宗吉(のち盛)に毛馬内通高市村(秋田県鹿角市高市)の五〇石を分知、残り高一五三石三斗九升七合となり、これまで通り高二〇〇石の軍役を務めた。同二年に隠居して遊山と号し文久元年死去した。その子直治宗恒(のち柳五郎)は武具奉行などを務めた。明治十一年の士族明細帳によれば盛岡の惟子小路二番屋敷に居住。なお、良助宗吉は下厨川村(盛岡市)四一五番屋敷に居住していた。歴代の墓地は盛岡市材木町の永祥院。また、小枝指氏の旧館小枝指館(七ツ館)は、昭和三〇年に東京大学東洋文化研究所によって発掘調査がなされ、同三三年に報告書「館址」が刊行されている。 諸士リスト(く?こ) 盛岡藩士の家系メインリスト |