九戸 くのへ |
南部氏の分族。南部家の祖光行の五男行連に始まるとされ、『系胤譜考』は行連━連実━武蓮━連元━元実━光康━光政━連康━信実━信仲━政実と11代を載せ、『参考諸家系図』所載系図もこれに近い。一方、『奥南落穂集』は政実までを14代に作るなど、伝書により世系は錯綜しており、いずれも慎重な検討を要する。また、九戸氏の祖を結城親朝の侍大将小笠原政康とする所伝もあるが(小笠原系図〕、親朝が九戸に所領を有したことを考え合わせると興味深い(白川結城文書元弘3年12月18日陸奥国宣案〕。当初は九戸村の大名舘に居住していたとする説が有力で、この舘は九戸氏ゆかりの九戸神社参道北側に沿った標高300メートルの丘陵地帯に位置し、付近には菩提寺長興寺がある。のち居城を九戸城〔白鳥城・宮野城、二戸市〕に移した時期は修理光政の代〔系胤譜考)とも、その孫修理信実の代ともいう〔奥南落穂集)。九戸城は総面積34万平方メートルに及ぶ広大な平山城で、このうち21万平方メートルが国指定史跡となっている。この段階で、すでに糠部郡屈指の有力武将に成長していたと思われ、浄法寺氏・八戸南部氏支族新田氏・七戸氏・久慈氏・野田氏・岩手郡不来方福士氏らと婚姻関係を結び、三戸・八戸南部氏を圧倒するほどの勢力を有した様子が系図類からうかがわれる。しかし、九戸氏が確かな史料に登場するのは永禄六年の光源院殿〔足利義輝)御代当参衆並足軽以下衆覚〔群書類従〕が初見。ここには「関東衆」として南部大膳亮(晴政)と並んで「九戸五郎(奥州二階堂)」の名が見える。二階堂氏は八戸氏、東氏らと共に伊豆工藤氏の分流。二階堂行朝は久慈郡地頭(遠野南部文書元弘4年2月18日陸奥国宣案〕であった所伝もあり、検討を有する課題である。なお「九戸五郎」が、九戸氏嫡流の最後の政実か、その父信仲と考えられるが、九戸神社に伝存する棟札から推して、政実であると勘考される。室町幕府が九戸氏を三戸南部氏と並んで糠部郡を二分する一方の勢力と認定していたことがわかる。天正年間の4月18日付嘉成右馬頭重盛書状には、比内を脅やかす南部方の武将が「九平九郎外一類」と表現されているが〔奈良岡文書〕、「九平」は九戸の誤りとすれば、当時秋田氏と合戦を繰り広げた南部勢力の中心は九戸政実だった可能性が濃厚である。南部晴政の代ごろより三戸南部氏と緊張が続いた(祐清私記、奥南旧指録など〕とする説がこれまで有力説であったが、晴政が信直を匿う南長義(浅水城主)・北信愛(南長義女婿・剣吉城主)と決戦に及んでいる(『八戸南部家文書』)史実に照らし、むしろ晴政・九戸氏の連衡と信直を盟主とする南長義・北信愛の連合軍の抗争が、晴政・晴継没後、政実と信直の対立に変形して行ったものと想定される。天正18年奥羽仕置で三戸南部信直がこの地域における豊臣政権下の唯一の大名となり、その結果において信直に叛逆する九戸政実像が形成され、豊臣政権への背命行為として扱われ、翌天正19年中央の大軍に包囲された。政実側にても中央工作を講じていた可能性は『祐清私記』に噂として記載している処から垣間見える。政実は降伏謝罪をしたが許されず、栗原郡〔宮城県〕三迫で処刑され滅亡した。現在、宮城県栗駒町九戸壇に、行動をともにし斬せられた将櫛引河内守清長・久慈備前守直治・七戸彦三郎家国・一戸彦次郎実富・円子右馬助光種・大湯四郎左衛門昌次・大里修理大夫親基らと共に埋葬され、かたわらに九戸神社の詞が祀られている。墓印に植えたと伝える椿が残る。九戸氏の分流は、江刺家・姉帯・小軽米氏らで、また、政実の弟康実は兄に従わず終始信直に仕え、遠野八戸家、大湯北家、浅水南家、名久井東家と共に、花輪中野家し称され、文政 年、それぞれ南部姓を許され、爾後、花輪の南部家として明治維新を迎えた。なお、藩政初期から常に、遠野八戸家に次ぐ家格を有し、大湯北家と共に御三家として藩政の中心にあった。 |