川口 かわぐち |
川口七之助家 230204 |
明治元年の支配帳に川口七之助家がある。川口九兵衛の次男七之助を祖と伝える。親の九兵衛は花輪通花輪町(秋田県鹿角市)の町人であったが、天明四年寸志金を献金して花輪給人となり、高二六石八斗四升四合を知行した。その跡は吉内一良吉(のち勇右衛門・清兵衛)戸勇治と相続した。勇治の二弟猪太郎義業は明治元年の戊辰戦争鹿角口の戦いに、出羽秋田郡扇田村で戦死。次男の七之助は花輪町で麹屋を家業としたが、その次男の七之助(幼名栄七、晩年直七)は幼少から画を好み、のち有度、月嶺と号し、別に真象、文紀などとも称した。文政十二年十八歳の時、画業を志して秋田横手の柴田南谷を訪れ、さらに山形、会津(福島県)を経て天保元年に江戸に至り、広く諸家の門を叩き、遂に四条円山派を確立した鈴木南嶺に師事、同門の柴田是真と技術を競い門下の双璧と称された。のち関宿藩(千葉県)藩主久世氏に出仕したが、間もなく致任して諸国を漫遊、下野国(栃木県)烏山でたまたま画を好む同藩士粕谷忠右衛門に避遁し、その娘をめとり粕谷永七と称した。このころ、書を大窪詩仏に学び、剣を佐藤一心斉に、易を堀川無明に学んだ。弘化二年単身郷里に帰ったところ、その名声は藩主南部利済(十三代藩主)の知るところとなり、翌三年二人扶持(高十二石)で召し出された。これにより妻子を烏山から呼び寄せ盛岡に居住した。嘉永四年三人加扶持(高三〇石)で五人扶持となり、大奥用聞格銅山吟味役・奥詰を務めた。安政二年藩が霊承院(南部利済)の絵像作成を絵師藤田祐昌と絵師並狩野佐助に命じた時、月嶺は両名の差図役に任じられた。明泊三年隠居、同四年死去した。その遺作の多くは郷里鹿角市と盛岡市にあるが、川口家に伝来したものは、その子月村(亀次郎宣寿)の遺作とともに、子孫丑吉によって岩手県立博物館に寄贈された。門弟には太田玉嶺、平福穂庵ら多数が輩出した。月村は設色鮮麗は父をしのぐものがあり、父に劣らぬ写生熱心の逸話を残している。北海道開拓使に出仕、測量図とともに、多くの写生帳を残している。明治十一年の士族明細帳によれば、月村は加賀野村(盛岡市)七十七番屋敷に居住。同三十七年に死去した。月村に三子あり、長男卯橘は朝鮮総督府に勤務。次男甲助は明治二十六年、幸田露伴の兄に当たる郡司成忠大尉の千島探検隊報国義会の一行に加わった。子孫は愛知県に在住。三男乙吉が父の画業を継ぎ、月泉と号した。その子で現当主の丑吉は盛岡市に居住。歴代の墓地は盛岡市の永福寺にある。 |