帷子 かたびら

帷子多太記家 210426


 明治元年の支配帳に帷子多太記家がある。『参考諸家系図』は佐藤彦五郎真次の弟新助綱直十二代の孫豊前吉平を祖と伝える。
奥南落穂集は新助綱直は建武の頃より三戸南部家の命によって岩手郡に住居。十二代の孫豊前吉平が信直に仕えて同郡帷子村(西根町)を食み、在名によって氏とした。その子次郎五郎吉真は二百石を知行、その子多左衛門吉恩の時三百石となり、吉恩の弟に惣右衛門吉明があると見える。子孫は繁えんし、明治元年の支配帳によれば六家を数える。
                明治元年支配帳
吉平━吉真━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┣吉恩━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃┣登武              三百三石一斗八升 帷子多太記  当家
┃┣吉高┳本吉           六十二石六斗九升 帷子繁治家
┃┃  ┣吉明           二十石      帷子礼八家
┃┃  ┗吉政━━吉伴   宝暦十年嫡子吉郎右衛門乱心により殺害され断絶 
┃┣紀一━一晋━━一根   宝暦十年同姓吉郎右衛門乱心により殺害され断絶 
┃┃            天文学に秀でていたと伝える 
┃┣吉金              二十二石     帷子祐左衛門家
┃┗吉降┳吉林━━吉勝━━豊之進(実吉伴の三男)
┃   ┃         宝暦十年実兄吉郎右衛門乱心により殺害され断絶 
┃   ┗吉金           三十一石五斗   帷子権蔵家
┗吉明━政吉━政明┳政芳      十二石      帷子賢治家
         ┗政包  寛文中召出され祐筆となる。百石 子の代に断絶


 吉平は南部信直に仕えて岩手郡帷子村(八幡平市)を知行、在名により氏とした。聞老遺事によれば、吉平について慶長六年の和賀岩崎陣従軍者の中に、「二百五十石帷子豊前、この下八人」と伝える。その子次郎五郎吉真は南部利直に仕えて馬廻りを勤め、江戸にて死去。その子多左衛門吉恩は山城(京都府)伏見で生まれ、利直の時に家督を相続、田名部通代官、郡奉行、鹿角西道金山奉行、同白根金山奉行などを歴任した。延宝八年帷子村に切添新田五十三石余を加増三百五石となった。貞享三年に隠居して善慶と号し元禄四年死去した。盛岡砂子によれば、城下帷子小路は「平山小路北二丁ばかり。元和年中、士屋敷割の時帷子多左衛門善慶という人の町割にて斯くいう。また貞享年中ともいう云々」と見える。内閣文庫に現存する正保書上絵図には、未だ帷子小路の町割はなされていないから元和年中云々は否定される。貞享年中町割についても家老席雑書に記載ないが、善慶は貞享三年の隠居から元禄四年死去までの隠居名。元文城絵図に帷子小路は既にあり、消去論で推せば、やはり貞享年中であろうか。その子七太夫登武(のち多左衛門、多次右衛門)は貞享三年に家督を相続。田名部通代官、長柄奉行、作事奉行、普請奉行、舫奉行などを歴任した。元禄十四年知行所雫石通御明神村百姓より訴状が出て、高三百五石の采地を花輪通三ヶ田村(秋田県鹿角市)、毛馬内通長沢村(秋田県小坂町)、五戸通西越村(青森県新郷村)、同通豊間根村(青森県五戸町)、同通滝沢村(青森県十和田市)に知行替となっている。のち舫奉行の勤功によって、采地を旧地沼宮内通帷子村、同通荒木田村(以上八幡平市)、雫石通長山村(雫石町)に復している。宝永二年に沼宮内通荒木田村、雫石通長山村を伝法地通伝法地村(紫波町・矢巾町)に知行替となり、宝永四年隠居した。この時、致仕を以て召出され、隠居料五人扶持を禄して元〆となり、舫所差図方となった。のち五人加扶持、十人扶持となった。享保七年十人扶持のうち、五人扶持を永代、残り五人扶持を一生扶持とされたのを受けて、五人扶持を二男興津多五右衛門に分地している。先例はなかったが、舫取立の大功による特別の取扱と伝える。享保十四年死去、享年九十六歳。盛岡藩の舫制度は江戸参勤供の旅費支弁を補助するために寛永十八・九年の不作の年に始まったが、定着しなかった。登武は諸士の意見を集約して延宝八年に再建計画書を藩に提出、翌天和元年採用されて実施に漕ぎ付け、その後も改良を重ねた功績は舫祖父と呼ばれ高く評価された。没後舫所に木像が安置され、毎月八日に灯明をあげ、神酒を供したと伝えられている。その子多次右衛門吉長は宝永四年に家督、享保八年に隠居して同十年死去した。その嫡子七太夫(のち多次右衛門)吉武は享保八年に家督、者頭(物頭)、騎馬火の廻、金森兵部少輔頼錦構番などを勤め、宝暦十二年に隠居、明和五年死去した。その跡を嫡子斧次郎吉達(のち多次右衛門)が宝暦十二年に家督、金森兵部少輔頼錦構番、騎馬火の廻をつとめ、安永六年死去した。その跡を嫡子千代松吉魏(のち多次郎、多次右衛門)が幼少で相続、騎馬火の廻、者頭を勤め文政十三年死去。その跡を多左衛門吉亀が相続、者頭を勤めた。天保十三年に地方を現米に色替し、弘化元年死去した。その跡を左仲(弘化二年に相続、中奥小性)賢蔵(のち多太記、弘化四年相続、小性、中の丸番子組頭)と続いた。安政六年現米十八石を扶持方に色替、慶応元年更に現米十二石を扶持方に色替して高三百三石一斗八升、うち七人扶持となった。その跡を力が相続、同十一年の士族明細帳によれば、上田村六十一番屋敷に住居と見える。力の跡を吉郎が相続したがその後の消息は未詳。歴代の墓地は盛岡市本町通の大泉寺にある。

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