片岸 かたぎし

片岸金次郎家 210423

 
 明治元年の支配帳に片岸金次郎家がある。『参考諸家系図』は閉伊十郎行光の後胤片岸用之助安俊を祖と伝える。当家は田鎖氏の一族として、代々閉伊郡片岸村(釜石市)を領し、その在名により氏としたが、安俊の時に南部信直に仕え、旧地によって片岸村を安堵され、高百五十石を知行したと伝える。その子用之助安春は慶長中に家督を相続、藩主重直の時に一時禄を返上して浪人となり、のち更に召出されて現米五駄二人扶持(高二十二石)を禄した。『参考諸家系図』は寛永十七年に死去。その跡を嫡子庄之助安秋(のち庄右衛門)が相続したと見えるが、正保三年の支配帳には従小組給人・片岸用之助があるほか、「雑書」には、慶安二年三月に雫石橋場目付、同四年五月には雫石橋場番として用之助が散見する。また、慶安五年の片岸庄之助書上によれば、親用之助は信濃様(利直)より五駄二人扶持を下され、拙者儀は御当代(重直)より五駄二人扶持を下され云々とあり、家老席雑書には慶安五年八月に庄之助は金奉行、寛文三年以降は塩消(塩硝)合薬役などとも散見する。その後庄右衛門と改名して寛文五年に塩消合薬役、同七年に表大納戸、同八年には用之助で雫石橋場番を勤め、同九年に嫡子庄之助が跡目相続と記録している。のち庄右衛門を称して表納戸を勤めた。元禄十六年死去。その跡を清右衛門安道(盛岡東根山奉行、元文三年死去)━万次郎安水(歩行火の廻、延享二年隠居)━三郎(実弟、歩行火の廻、同年中死去)━養子嘉内(のち清兵衛、下屋敷取次、本丸末番、宗門奉行手伝、新丸末物書、隅屋敷取次を歴任、安永六年死去)━喜之助(安永六年隠居)━平治(歩行火の廻、文政二年死去)━瀬左衛門(同四年隠居)━太郎八(のち清兵衛、七兵衛、徒目付、天保十一年隠居)━美喜弥安礼(のち金次郎、雇勘定、勝手方)と相続した。慶応元年物価高騰を理由に本高同様の手当米八石を支給され、手当米ともで三駄四人扶持(三十石)の実収となったが、維新後は七戸藩、次いで江刺県に出仕して小属となり、明治同十一年の士族明細帳によれば、下小路十一番屋敷に住居と見える。その跡を安久━養吉━ノブと相続、当主の晨は盛岡市に在住する。歴代の墓地は盛岡市材木町の永祥院にある。

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