加島 かじま |
加島加録家 210423 |
明治元年の支配帳に加島加録家がある。『参考諸家系図』は山内首藤刑部丞道義の後裔天野五郎左衛門尉英次の嫡男加島市郎左衛門英貞を祖と伝える。系胤譜考によれば、道義の曾祖父を上野介通家、祖父を守藤大夫資清といい、その次男守藤権守資通を道義の父と伝える。子孫天野出雲守豊則の子民部丞元豊の時に中国から九州へ移住、大友宗麟に仕えた。その子五郎左衛門尉豊英の時に主家大友氏が滅亡。豊英は浪人となり豊後佐伯(大分県)に住居し、のち京都に移り同地で死去した。その子は三子あり、嫡子を五郎左衛門尉英次といい、寛文十年に豊後佐伯で死去した。当家の祖加島市郎左衛門英貞の父である。英次の三弟親英は野崎平六郎を称し三百石を以て筑後(佐賀県)久留米城主二十一万石有馬中務太輔頼元に仕えた。英貞は母方の祖父加島内記に土佐(高知県)で養育され、加島市郎左衛門を以てその名跡を相続、のち江戸に出て元禄四年藩主重信に召抱えられた。同年盛岡に移り、地方二百石を食み、次いで江戸定府となり、元禄十一年に隠居した。のち隠居料を擬(あて)がわれて丹後(京都府)田辺三万五千石の城主牧野河内守英成家に移り、夫人鎮姫(藩主行信の四女重子)の奥使となり、牧野家からも別に十五人扶持を給与された。その後擬を地方百三十石に色替され、表用人格となり鎮姫後見となった。のち更に三十石を加増されて高二百石となり、二戸郡女鹿村に五十石を、同郡楢山村(以上一戸町)に五十石、三戸郡斗内村に五十石、同郡泉山村(以上青森県三戸町)に五十石を知行。正徳三年死去した。元禄十一年に英貞の家督(高二百石)を相続した嫡子助之進英積は、広間番の後、取次、宗門奉行、目付、下屋敷留守居宗門奉行兼帯などを歴任。宝暦七年老衰を以て隠居願を提出したが認められず、当日別に世子信貞の側役であった嫡子丹右衛門英賢が部屋住のまま下屋敷留守居見習に取立てられ、側役及び奥使を兼務した。英積のその後の事跡は未詳である。嫡子丹右衛門英賢(初め又三郎、舎)は、部屋住で世子信貞の側役を勤めたが、宝暦三年に側役の勤功を以て部屋住料五人扶持を擬われた。のち舎、次いで丹右衛門と名を拝領。宝暦七年に下屋敷留守居見習で側役及び奥使を兼務した。その後上屋敷留守居下屋敷留守居見習側役兼帯奥使兼帯となった。家督の時期は未詳であるが、それを前後して留守居役となり、明和・安永中には用人として散見する。英賢に弟があり、二弟蔀英誠は宝暦二年、父英積が生前に江戸で召出され、世子信貞の側役となり、別に四両五人扶持(高五十石)を知行した。三弟文右衛門英林は明和二年召出され四季施五両三人扶持を食禄した。四弟七五郎英富はこれを前後して召出され四季施五両三人扶持を知行した。英賢の跡を嫡子市郎右衛門が相続。取次となり、者頭、取次留守居手伝当分兼帯を経て安永三年には既に留守居で散見、享和二年当時にも同職で見える。その跡を嫡子舎(のち市郎右衛門)が相続した。南部略武鑑によれば享和三年留守居となり、文化五年側役も兼帯。その後同十年に金方五十石、文政八年更に金方五十石、同十年金方五十石を漸次加増、高三百五十石となった。その後嫡子市郎右衛門が相続、天保二年地方二百石を金方二百石に色替し、同八年三十六歳で隠居した。取次役を勤めたことが知られている。その跡を嫡子万吉(のち加録)が相続、天保十二年に金方三百五十石のうち十八石を扶持方に色替、更に安政三年金方二百石を地方に取戻し、采地を天保二年当時に復して知行した。文久二年国勝手となり盛岡に移住、慶応二年に扶持方十二石も金方に復した。この間、嘉永六年に留守居となり、文久三年目付を兼帯、その後用人を勤めた。明治三年嫡子延太郎英昌が相続、同年家名を本姓に復して山内延太郎と改め、その後更に山内英昌と改名した。同十一年の士族明細帳によれば、英昌は当時油町四百五十七番屋敷に住居と見える。その跡を哲男━武夫と相続し、その嫡子で当主の山内一洋は東京都に在住する。高三百五十石のうち地方二百石の采地は、四十八石余を二戸郡女鹿村に、五十石を同郡楢山村(以上一戸町)に、四十四石余を三戸郡斗内村に、五十石を同郡泉山村に、七石余を同郡貝森村(以上青森県三戸町)にあった。 諸士リスト(か?き) 盛岡藩士の家系メインリスト |