葛西 かさい |
葛西市右衛門家 210331 |
明治元年の支配帳に葛西市右衛門家がある。『参考諸家系図』は葛西正兵衛晴易の四男葛西市右衛門晴興を祖と伝える。晴興は天和二年実兄江刺市左衛門隆真より知行切添新田二百石を分地を請けて召出された。元禄五年新田改高六十一石四斗九升一合を食して百石の軍役を勤めた。公史である雑書は、これを同年四月二十六日条で「葛西市右衛門ヘ百石の小高帳を下され今日渡す。右は江刺市左衛門知行所の内、地尻地頭披立候らはば、二百石市右衛門に下されたく由、先年市左衛門願上候所、百石披揃い候に付てなり、残所追って披き候らはば下される可き由」と記録している。享保十三年隆真の嗣子で甥の江刺市左衛門恒篤より岩手郡長山村(雫石町)に三十八石八斗八升九合の分地を請けて百石三斗八升となり、百五十石座となる。毛馬内通代官を勤め、同十四年に隠居した。その跡を嫡子市内晴氏(のち市右衛門)が相続、享保二十一年の国役・大井川(静岡県)普請手伝いには現地に赴き立番の役を、その後鹿角銅山奉行、勘定頭を勤め明和六年死去した。享年七十三歳。その跡を嫡子市太夫(のち市内、座敷奉行表給仕当分加、武具奉行を勤めて安永九年死去)━才助(安永十年相続、実は川守田弥五兵衛の四男、のち保人、市右衛門、幼少番、のち北地御用一応取計など、文化九年死去)━安太(のち市右衛門、使番、嘉永六年死去)━市太郎(のち軍平、市右衛門)━省吾(のち重雄、部屋住で小性を勤めたのち明治三年に家督)と相続した。同十一年の士族明細帳によれば、当時鷹匠小路十六番屋敷に住居と見える。重雄は初め県官となったが若くして小野組に仕え、古河市兵衛の小野組糸店で生糸取引に従事した。小野組閉店の後、古河市兵衛と行動を共にして、その経営する足尾銅山(栃木県)に赴き産銅事業に当たり、明治十八年に古河が官営阿仁銅山(秋田県)の払い下げを受けた後は同鉱山の鉱業所長。のち古河鉱業の理事となり社長古河潤吉を補佐した。大正九年迎えられて岩手銀行頭取となり、のち盛岡貯蓄銀行頭取、盛岡倉庫取締役などを歴任。大正十四年死去した。その跡を養嗣子萬司が相続。萬司は鴨沢恒の弟として文久三年平泉村に生まれ、明治二十二年東京帝国大学工科大学建築科在学中に重雄の養子となった。欧米各地を廻り鉄筋コンクリート造りを会得。帰国後、同三十六年辰野金吾と建設工事設計監督事務所を設立、大正二年工学博士となった。東京駅、両国国技館(現・日大講堂)、女子学習院など東京都内に於ける代表的建設の設計者として知られ、一方、盛岡では盛岡貯蓄銀行(現・盛岡信用金庫本店)、旧岩手銀行本店、盛岡信託株式会社、肴町榊呉服店、岩手日報機械場(焼失)、盛岡銀行本店(現・岩手銀行中の橋支店、実は横井顕行設計という)などの設計に当った。養父重雄の死後、岩手銀行の取締役に就任、昭和十七年死去した。その跡を堅三郎が相続、当主の重哉は東京都に在住する。現岩手放送の敷地は葛西邸跡。歴代の墓地は盛岡市北山の東禅寺にある。 諸士リスト(か?き) 盛岡藩士の家系メインリスト |