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| 南部行信 |
| 人物志 |
| 行信は重信の三子、母は玉山氏、寛永十九年八月十七日生れた。はじめ八内、右馬之助、尚信と云つた。重信は庶子であつたので花輪氏を称したが、慶安元年重信七戸直時の家を継いだので、行信もまた七戸氏を称した。 寛文三年八月長兄政信、二兄政行歿したので、四年十一月重信二十九代を継ぎ、行信は二十三蔵で世子となつた。 元禄五年六月二十七日重信老を告げ、行信五十一歳にして位を嗣いだ。 在職の間鹿角の産金激減し、慶長のころに此すれば百分の一に過ぎず、加うるに四回の凶作相継ぎ財政虚耗し元禄の末には借財四万両に及んだ。行信ふかくこれを憂い諸費を省き節約を旨とし、自から粗食散衣に甘んじ、台所には一切用なくして火を掲ぐることを許さず、新丸にあるも火を用ゆることなかつた。元禄十二年に江戸にあり封内の凶作を聞き、食膳を滅し粥を食うこと数月に及ぶと云うに見て仁慈の為人を知られる。 かくて財政やゝ好況に向わんとしたが、十五年十月十一日六十一歳を以て薨じた。謚して徳雲院殿四品前信州太守玉翁宗珊と云う。治世中の行実は山口之恬の墓誌に記して余すところがない。文凡そ二千一百二十余字、銅版に刻して墓中に埋むるものと云う。 行信尤も能楽をよくし抜群と称せられた。貞享二年十月九日、江戸城二の丸にて諸大名の出演御能あり、行信三井寺を演出し、堪能を賞せられたが、さらに将軍綱吉より猩々乱の所望があつた。三年六月二十七日、また二の丸にて六番の能興行のうち、船弁慶・善知鳥・乱の三番に出演して名誉を博した。三井寺には春藤新之丞・高安三太郎・宝生新九郎・盛田庄兵衛・大倉次郎太郎・大倉弥太郎等共演の晴舞台であつた。次で元禄元年五月に将軍儒臣の論語進講の席に重信・行信父子講席に列なつたが、講おわつてのち将軍行信に散楽の所望あり、行信直にたつて山姥を舞い、諸人の欽羨するところとなつた。三井寺の装束紺地寿字雪桃折枝模様・段替錦手松島塩釜青海波唐威の絢爛たる装束はいま南部家に伝えられている。 行信武技をよくし、馬術・砲術・弓術等ことに馬術と砲術尤も絶群、行信一流を創始したもので、馬術はその法を藤技宮内また関口定照等に伝えた。「行信流馬書」が独創になるもので、いま盛岡市産業文化館(現盛岡市中央公民館)に蔵してある。砲術は心的妙化流と云い、諸流を参して独見を加えたるものと云われる。金矢与一兵衞その法を伝え、伝統相つぎ明治に及んだ。「心的妙他流秘巻」「御流儀心的妙化流砲術手鑑」がある。 行信は兵法に於て造詣の深かつたことは従来伝うるところなかつたのであるが、「前定軍範集」は行信が重信の意をうけ、儒臣下村奚疑と軍師仁木根一に命じ大成せる信玄流の兵法書で、道灌流・謙信流の二法に先だち信直のころ巳にこの法に準拠したことが知られる。行信・下村・仁木三序を以て大概を記してこの流の由来を明かにする。 信直は嘗て武田晴信の冠子となり、一字をうけている勝頼の没落するや、甲州の士の信直に帰属するものが少くなかつた。中に富沢なるもの軍配の術をよくし、利直が岩崎戦に於てその言を用いて大利を獲た、信直・利直が多年軍陣の間にあつたが、文籍の証するものないので行信が重信の意をうけ、武田の法を雑い軍式数十件をさだめ、この書を伝うることを得た。甲州一流は信玄俊逸の才を以て文学の智を加へ、孫武に基き、孔明に法り、以て一格を起したもので古今に秀て、四方に表して未だ他に侍るところがなかつた。ために一生五十余年の間、始終七十余団を戦い勝利を得ないことがなかった。まことに抜群の伝で、後世若し名を軍術に発する者あつても、未だこれに過ぐるものがない。信直一世の間兵革を取り其術に熟し、多く信玄の軍格を用いて勝利を得たが、古老の言伝のみで、おそらくこの法断絶しよう、こヽに於て家伝を挙げ信玄の法を参し、当時分限の人数の格をさだめ、その役々の品を分ち、人馬武具等を詳記し、日取時取の事・出陣の作法・座備・行列・陣屋取備へ立・城攻・夜軍・船軍・築城・籠城・勝鬨を揚ぐる法・帰陣の法、悉く筆にせしめた。この大権を定め置けば縦ひ千万騎の大軍に及ぶも、此の理を推すに於ては難きことがないとある。元禄二年五月起稿し、三年三月大成したとある。行信の前序に「只聚連於股肱羽翼之臣等、而披此図書、試得接戦之勝敗、然補其不足、舎其有余、与時宜之、其如此而煉術究功、則可謂致忠於君、報孝於祖、垂慈於後之人也、是吾所以期望干来主也」とある。以て行信の志のあるところを見るべきであろう。 行信儒学を奨励し、儒学の士を挙用し、つねに儒臣をして儒書を進講せしめ、請おわつて、討論せしめたことを伝えている。本多与一郎・根市政徳・下村奚疑・大巻喜六の儒臣、北可継・北川宗俊・藤枝宮内・足沢左十郎等の重臣、いずれも当時の聞人であつた。元禄九年林門の山口之恬・本多与市郎の両人を三百石を以て聘した。当時江戸都下歌あり、「うそたやら本多もしれぬ与市郎信濃だまして高知取けり」信濃は即ち行信、以てその好学を見るべきである。諸士靡然として学事に向つたと伝えられる。 行信また和歌を嗜み歌集がある。また画をよくし鐘旭図を伝う。雄勁の筆致武技に秀でた剛爽の人と為りをおもわしめる。 |