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| 南部利敬 |
| 人物志 200128 |
三十六代利敬幼名慶次郎、信敏、天明二年九月生れた。利正の二子、利正江戸に卒し、同四年位につき、家老八戸弥六郎・櫻庭肥後・毛馬内三右衛門・奥瀬要人・東中務等輔翼して国政を行つた。 寛政七年十四歳、二月十五日にはじめて将軍家齊に謁し、四月十六日名を利敬とあらため、二十七日江戸を発し、五月十日はじめて入国した。江戸にありて政治権臣に帰し、士民利敬を慕つていた。落首に「国の守の入部し玉へたるに依つて家中より御樽肴を献ず」と前書して一に「先に乱樽政事を直し鯛」、二に「久しくすたる樽武道を磨鯛」、三に「近年長し樽おこりをやめ鯛」、四に「殿中さび樽礼儀をすこし鯛」、五に「御家に傅り樽に定法を出し鯛」、六に「下のつまり樽様子をつけ鯛」、七に「年を取上樽寸志金之事を為知鯛」、八に「姫入部有樽しるしあり鯛」、九に「盗人に似樽役人をつけ鯛」、十に「恥を知り樽役人をあけ鯛」、天明の大飢饉より寛政の凶作こもごも至り、六年には和賀の水澤、鹿角郡の不老倉、白根の三銅山休山し、七年には御用金・寸志金・分限金等あらゆる金米の徴収あり、加うるに封内高百石に米三十駄の買上を命じ、納むることが出来ないのに督促急であつたため、十一月八日花巻の農民数百名城中の中の口に出で、直訴せんと迫った。この日は入部の賀で、新丸に猿楽を催していた。夜に入つてみな退いたのであつたが、九日また諸郡一時に蜂起し、螺を鳴らし鬨を発しておしよせ、北上川を越て、数千人遂に中の橋東詰に至り騒擾を極めたが、新税を免除することを約し、漸く退去せしめた。為めに家老中野筑後を免じ、毛馬内・奥瀬の半地を没収したのをはじめ、有司を陶汰し、十一月倹約令を施き、百事刷新した。八年諸代官に対し「民は国の元」なれば御代官常に民の辛苦を能く察し、愁苦の様可申付、下役帳付等に不申付自分に相勤候事肝要」なること支配の民より金米銭致借用間敷事」の心得より、山法・用水・田畑・諸色・風紀・祭祀に至るまで細大洩さずいましめている。華美を戒め粗衣粗食に甘んじ、一藩これがため靡然風をなした、為めに施設宜しきを得、寛政九年十一月二十七日・十一年正月二十日と、文化元年十一月七日には長町と穀町の牢舎に一人の入獄するものがなかつたと云う。 寛政十一年露人北海を窺〓し、蝦夷地の形勢重大をつげ、一月幕府は松前藩の領地東蝦夷地をおさめて幕府の直轄とし、南部・津軽両藩をして兵を常駐せしめ、十一月には、蝦夷北サハラクスリの営所に両藩の重臣二三人と足軽五百人宛を派遣すべきを命ぜられ、文化元年、さらに守備を厳重にしたが、四年異国船一艘西蝦夷近海にあらわるとの報あり、四月物頭三人、小奉行十人、鐵砲足軽二百五十人、医師・従僕等三百六十三人をおくつた。四月二十三日露艦二艘択捉島の西浦ナイホに入り、二十五日ナイホのわが藩の番屋に入り、米塩を奮い、火を放ち番人五名を補えて出帆し、二十九日紗那にあらわれアリムイにて狼籍し、間宮林蔵・千葉政之進等活躍したことは、「千葉政之進書上」に詳に記してある。 文化八年五月露艦ヂヤナ号は沿海を測量し、国後島方南に進航し、二十六日泊に入つたが、玉山六兵衛砲丸を発して退けた。六月三日艦長ゴロクニンは士官・永兵・通辯等七名を随へ、上陸したのを六兵衛部下に令し、艦長以下六人を捕縛し、交戦すること一時間、露艦を外ケ濱沖に撃退した。十年十月に至り異国船漸次影をひそむるに至つた。 南部藩は封内廣大で、戌兵の交替、幕吏の往来、糧食兵器の運搬等繁劇で、従つて賦役も増し、国帑を窮乏にした。蝦夷地は云うまでもなく、五戸・七戸・野辺地の要地に多きは藩兵一千七百人をとゞめ、北海警備には不抜の決心を示した。文化七年封内に「此度の御用は日本と異国との事に候間、公義と役人衆御取扱の善悪、並に隣領等の出入、彼是には一切頓着無之、天照太神宮へ国恩の為の御奉公と存候て一同出精可致」と令せるに見ても、その信念が見られる。文政三年六月三日卒す、年三十六、法名を神鼎院殿前大官令龍岳宗文大居士という。明治四十一年九月、従三位を追僧された。北海警備の功績によるものである。 幼より学を好み、下田三蔵を用い教学を振興した。尤も敬神の念篤く、白川流の神道の奥義を極めた。また画をこのみ、よく山水を描いたが、このんで大黒像を作つた。「孝行手鞠歌」と題するものを作り舞田屋に命じて上木せしめたと傅えられるが、いま傅本を見ることが出来ない。 享和三年利敬が二本松藩主丹羽左京大夫と殿中に争い、位階のその上に出でんことを願い、老中堀田正敦に請うて田名部五千石の地を献せんとしたのを、八戸美濃が利敬の証書の署名をやぶり、のみ下したとのことは、「東国太平堅秘録」「雙鶴萬歳録」「田名部一件」に記され、びろく流布されているが、星川正甫は真偽二論あり、稗史に近いであろうと疑を記している。 利敬については下斗米将眞の津軽藩主を矢立峠に要撃した一事がある。「岩手盛義英物語」あり、ほか稗史講談にうたわれ多く知られるが、要をつまんでその事蹟を傅える。 将眞、字は子誠、通称秀之進、形水と号した。福岡の人、幼にして剛毅気節あり、談たまたま治乱興亡、忠孝節義の事に及べば、覚えず髪怒り眦裂け慷慨淋漓、身其事に與る如くであつた。津軽氏の祖為信は詭計を以て藩の提封を侵し、一方の雄藩となつたのを憤り、報復せんとするの志あり、幼より史傅を渉猟し武技を攷めた。五六歳にして常に戦闘の戯をなし、自ら大将となり、群児を指揮すること兵法に熟するものゝようであつた。江戸に出で平山子龍の門に学び、その四傑の一人と称せられた。子龍文武兼備芸十八般に通じ、声名天下に震つた。文政三年十一月津軽寧親侍従に拝せられたが、利敬の死は、もと世臣たりし津軽氏が栄進のさまに痛憤されたためで、わけて利敬ののち利用の位階その下にあるを憤り、扼腕禁ずる能わず、君辱めらるれば臣死すと、博浪沙の一撃を行わんとし、英雄心事如相聞、総在紅涙萬行中、と口占して国に還り、寧親を国境矢立峠に要撃せんとした関良助・一条小太郎・弟龍之助・下斗米惣蔵等と羽州白澤駅に抵つた。矢立峠は絶嶮で、その下は所謂四十八川の難所あり、一人以て百人に当る天険で、まず地雷を嶺上要書の地に伏せて良助等これを守り、また紙砲一挺を嶺下に伏せて惣蔵等之を守り、身自ら二丸を銃に充て、樹上に登り、敵を待つた。然るに僕大吉変心し、その弟子某をして敵に内通したので、闔藩驚愕、憐を佐竹家の権臣に乞い道を転じ身を以て逃れた。将眞遂に事の成らざるを悟り、埋め置えた地雷を爆発し、途中鎧の宮を過ぎ「矢叫びの声かと聞けばそれならで鎧の宮に嵐吹くなり」と詠じ、妻子と関良助・龍之助を伴い江戸に奔つた。将眞謂らく、匹夫終に要し諸侯遁逃す、その陋甚し、且つ禁を犯して間道を取る、勢官に告ぐるを得ざらんと、表三番丁に武芸の道場を開き、実用流指南相馬大作の門牌をかゝげ畏憚するところがなかつた。津軽藩憂悶措く能わず、要路に訴え遂に将眞を捕えた、抗せずして縛につき獄に下つた。良助もまた捕えられた。文政五年正月二人を幕府の旗下某の邸にうつし、八月二十九日小塚原に斬られ梟首された。顔色生くるが如くであつた。年三十四。良助もまた斬らる、年二十三。藤田東湖の将眞傅は石に刻して福岡町呑香稲荷社に建てられている。吉田松陰の手筆に係るもので、その忠魂義烈を千古に傅える。 |