織笠 おりかさ

織笠只見家 210209


 明治元年の支配帳に織笠只見家がある。『参考諸家系図』は織笠九蔵を祖と伝える。九蔵は藩主利直の時、彦九郎政直に召出され、地方七十石を食邑したが、のち故あって収禄、浪人で死去した。その養嗣子となった実弟弥次右衛門(一本万右衛門)も浪人で死去した(『参考諸家系図』)。ただし、『南部氏諸士由緒』は慶安五年に藩が実施した由緒書上を伝えて
  一、              万右衛門
  親万右衛門生国御当地、拙者儀四駄弐人扶持被下
とある。『参考諸家系図』説を疑う余地がありそうに考える。

 弥次右衛門に子が三男あり、長男伝十郎(のち庄右衛門)は大沢氏を称し、天和中稗貫郡湯口村に与力野竿新田五十石を請けて披立、のち改高十五石八斗七升四合を食邑、花巻与力となった。明治元年支配帳は「八幡通御与力拾五石八斗七升四合大沢広司」を記録している。

 二男弥兵衛義勝(のち甚兵衛)は寛文十年花巻より召出され、台所から一人扶持を支給された。翌年三駄と台所から二人扶持を加増、天和四年これを本高に替えて五駄二人扶持(高二十二石)となった。宝永二年死去した。当家初代である。

 弥次右衛門三男治五右衛門政年は藩主重信の時花巻より御徒に召出され、六駄二人扶持(高二十四石)を食み元禄十五年士班に列し享保十三年死去している。

 二代目弥兵衛義明は宝永二年に相続後、重信側室松貞院(新渡戸佐五右衛門常秀女・吟)役人を勤め、享保十二年死去。三代目は甚兵衛義繁(のち弥兵衛、一書は弥兵衛義高に作る)が相続した。新山物留番所番人、郡山蔵奉行、黒沢尻蔵奉行、大納戸、盛岡新蔵奉行、見前通代官、見前向中野通代官、上田通代官、ひらた(舟篇に帯)奉行を勤め明和五年に隠居。四代目は四戸久左衛門度武の四男久之丞義隣が養嗣子となり相続をした。新山物留番所番人、角屋敷取次、払方金奉行を勤め、同八年に死去した。五代目は翌九年に嫡子丑之助(のち縫右衛門)が相続。番割所物書、目付所物書、盛岡西根山奉行、別段廻りなどを勤めた。のち門馬山奉行を勤めた甚兵衛があり、甚兵衛の名は文政三年の支配帳にも見える。甚兵衛は丑之助(のち縫右衛門)か、六代目縫右衛門であるか未詳。縫右衛門は既に文政六年には当住として散見し、安政二年に死去した。用聞を勤めた。七代目は花輪給人佐々木和左衛門の弟只見義室が養嗣子となり安政二年に相続した。部屋住の内から目付所物書を勤めた。慶応元年物価高騰を以て本高同様の手当米八石を支給され、手当米共で三駄四人扶持(高三十石)の実収となった。明治十一年の士族明細帳には仁王小路六十二番屋敷に住居と見える。その跡を嫡子義正が相続、義正の娘は他姓に嫁ぎ、家名は絶えたが、旧盛岡藩士桑田の権利継承者は盛岡市に在住する。歴代の墓地は盛岡市名須川町の龍谷寺にある。

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