於曽 おそ

於曽啓之丞家 210121

 明治元年の支配帳に於曽啓之丞家がある。『参考諸家系図』は加々美次郎遠光の後裔加賀美亮(さやか)を祖と伝える。天保十二年、亮は南部家の遠祖加々美次郎遠光の由緒により高三百石の格式を以て取立てられた。同十四年に一ヵ年金二十両を支給され、嘉永二年金二十両の支給を停止して金方二十両百石を食禄した。その後安政六年十八石を扶持方三人扶持に色替、慶応元年二十四石を四人扶持に色替した。内史略には、「弘化三年甲州住人加々美亮と云う者が召し抱えられたり。百石にて二百石座なり。加々美次郎遠光の子孫にて系図正しきと云々、江戸定府なり」と見える。尊卑分脈によれば、遠光に子が六男あり、長男を秋山太郎光朝、次男を加賀美小次郎長清、小笠原を号した。三男を南部三郎光行、四男を加賀美四郎光清、五男を於曽五郎光俊と称した。「於曽系図」によれば、加賀美四郎光清十七代の孫・次郎左衛門光善の二男才兵衛正光は徳川家康に仕え、天正十八年九戸一揆の時、扈従して岩手沢(宮城県)に来た。正光の子孫は幕臣として五百五十石取で維新に至った。正光の兄才兵衛信重は甲斐巨摩郡加賀美庄(山梨県)に住居。この時、南部信直は三顧の礼を以て加賀美氏を迎えようとして叶えられなかった故事がある。その世系は次の通りである。加賀美四郎光清━四郎左衛門尉光経━左衛門兵衛光久━美濃守光定━半太夫定供━半太夫経定━兵衛尉経淳━左衛門尉光淳━次郎左衛門尉光芳━四郎芳経式部少輔経久━四郎左衛門尉光文━四郎太郎経常(永正十六年武田信虎のために討死した)━幡之輔光清(天文十五年川中島で討死した)━彦六郎光正(正光)━次郎左衛門尉正行━右衛門尉(のち次郎左衛門)光善その子が才兵衛信重という。信重の跡は左衛門光孝━四郎左衛門光顕━次郎左衛門光寿と続くが、加々美亮はその末裔であろうか。但し「寛政重修諸家譜」にはこの家系を確認出来ない。亮は嘉永四年隠居した。その跡を嫡子敬吉(のち啓之丞、此一郎)が相続、同年苗字を於曽と改めた。定取次、留守居添役、上田通代官などを勤め、用人に昇進した。俳諧を越前敦賀(福井県)の人・嵐外六庵に学び、一徳庵此一と号した。先師二十三回忌の追悼のため「花のちり」を上梓した。門人には沢田鷺橋(弾左衛門定啓)、杤内蘭岱(秀治)、梅田梅啓などがある。明治四年に隠居し、同十一年死去した。その跡を嫡子不二衛遠寿が相続、その跡を同十一年にその子イトが相続した。維新後加賀美に復したというが、同十一年士族明細帳には於曽イトがあり、東中野村(盛岡市)に住居と見える。歴代の墓地は盛岡市大慈寺町の祇陀寺にある。


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