奥瀬 おくせ

奥瀬直弥家 201227


 明治元年の支配帳に奥瀬直弥家がある。『参考諸家系図』は奥瀬伊左衛門定如の二男与七郎定経を祖と伝える。定経は宝永五年父が死去、翌六年甥の七之助定堅が嫡孫承祖の時、遺領高九百石の内高三百石を分知された。正徳三年足高三石があり高三百三石となった。騎馬火の廻り、三戸通代官、者頭、中丸番頭を勤めた。宝暦三年に隠居、定軽と号した。安永三年死去した。その跡を伊右衛門定昌が相続した。者頭、留守居、側用人を歴任した。この間、宝暦三年下野(栃木県)日光本坊修復普請手伝に、現地に従事した。安永九年高五十石を加増され、高三百五十三石となった。天明三年死去した。新当流劔術を下斗米小四郎昌固に師事して同流師範となり、その流儀を日戸杢秀清に伝えた。天明三年死去した。その跡を覚左衛門(のち舎人)定歯が相続した。者頭加、花巻郡代、用人側用人兼帯、側頭を歴任した。文化三年金方五十石を加増、高四百石となった。新当流劔術を福島小右衛門吉邑に学び、同流師範となり、その流儀を佐々木周蔵寛綱に伝えた。文化十一年に隠居、冠翁と号した。文政二年死去した。その跡を毛馬内蔵人の二男小八郎(のち覚左衛門)が相続、者頭を勤めた。天保十年死去した。その跡を恭五郎(のち衛門)定往が相続、大目付、側用人を勤めた。慶応三年故あって身帯半地取上となり、金方二百石となった。盛岡藩国住居諸士によれば、この時蟄居隠居したとあるが、その後の履歴から見て疑問がある。慶応四年表目付となり、同日金方二百石のうち百石を地方に色替された。甲州流兵学をよくし、西洋流銃隊錬兵場を設け子弟に教えた。和歌を好み、笙に堪能を以て聞えた。明治三年隠居。その後小笠原競と復姓改名し、同二十八年に死去した。明治三年嫡子直弥(のち定郎)定盈が家督を相続、その直後か小笠原氏に復姓して小笠原直弥と称した。同十一年の士族明細帳によれば、当時仁王村(盛岡市)八十三番屋敷に住居していた。画を川口月嶺に学び直哉また直嶺と号し仏画を作った。死後その家に、美濃紙に描いた羅漢像が四五百枚あったという。漢籍に通じキリスト教徒で「奇矯にして変人」を以て知られた。その跡を定陽、陽夫と相続して家名は絶えた。その子孫で旧盛岡藩士桑田の権利継承者は広島県に在住する。歴代の墓地は盛岡市北山の聖寿寺、明治以降は同市材木町の永祥院にある。天保十年の諸士知行平年所務書上によれば、高四百石の内采地は、百八石余を寺林通大瀬川村(花巻市)に、百石を大迫通下宮森村(宮守村)に、九十一石余を五戸通大不動村(青森県十和田市)に食邑していた。


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