奥瀬 おくせ

奥瀬源助家 201227

奥瀬 おくせ 

 明治元年の支配帳に高知家格奥瀬源助家がある。「参考諸家系図」によれば小笠原安芸の後裔奥瀬安芸定直を祖と伝える。小笠原安芸は南部光行に従い建久二年甲斐より糠部に移住。三上、桜庭、福士と並び四天王と称され国政を掌ったと伝える。子孫安芸定直の時、信直に仕え、北郡奥瀬村(青森県十和田湖町)を食み、在名により氏とし、奥瀬舘に住居して死去、同村浄円寺に葬ったという。定直に三男あり、長男治部少輔定重が家督を相続、代々国政の中枢にあった。二男勘兵衛真良は浪人で死去。その子孫は福岡給人となった。定直の三男小笠原惣左衛門定知は津軽陣の時に戦死した。

小笠原姓 奥瀬氏略系図

奥瀬安芸定直┳治部少輔定重┳安芸重之━与七郎┳内蔵直定━━━━━━━━━┓
      ┃      ┃        ┣小左衛門忠重       ┃
      ┃      ┃        ┗長七忠脩━七郎左衛門   ┃
      ┃      ┃                 断絶   ┃
      ┃      ┗小笠原弥彦 七戸に子孫繁栄         ┃
      ┗奥瀬勘兵衛真良━小笠原上総真長 福岡に子孫繁栄      ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┣治太夫善定┳求女助長定─治右衛門定旧 断絶
┃     ┃
┃     ┣治太夫定清┳内蔵助光定
┃     ┃     ┃ 一、八百五十石      奥瀬源助家
┃     ┃     ┃
┃     ┃     ┗城之助定有
┃     ┃       一、五十石        奥瀬四郎助家
┃     ┗伊兵衛定高─軍助定照 断絶
┗伊右衛門得定━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┗伊左衛門定次┳兵吉定郷
       ┃      一、七百石一斗三升二合  奥瀬伊左衛門家
       ┗与七郎定経
              一、四百石        奥瀬衛門家
 
 奥瀬家中興の祖定直は晴政に仕え、北郡奥瀬村(青森県十和田湖町)を領し、その在名により氏とした。その子治部少輔定重及びその子七郎重之(のち安芸)は晴政の時家督を相続、重之は天文八年赤沼備中が三戸城を夜襲した時に討死した。南部史要によれば、事件の起因は、重之と赤沼備中の不仲にあり、その主晴政が重之に依怙贔屓をしたことに対する恨みという。重之は近習頭であったとも伝えている。

その子与七郎重賢(のち安芸)は家督後、慶長六年和賀岩崎陣に従軍、同二十年に死去した。その跡を二弟小笠原弥四郎直定が順相続、奥瀬内蔵と称した。系胤譜考によれば、その主信直の命により嫡子となり、文禄元年福岡城で殿上元服をしたという。家督の時高四百二石三斗八升二合を知行。元和九年将軍徳川秀忠の上洛に藩主利直が扈従した時、留守を預かった功績により三百九十七石を加増、高八百石となった。寛永六年死去した。直定に二男あり、長男鍋丸は部屋住で寛永三年主家南部重直に従って将軍家光の上洛に供したが、京都で父に先立ち死去した。二男丑松善定(のち内蔵介、治太夫)は、初め小姓に召出され北郡大不動村(青森県十和田市)に地方二百石を食邑した。寛永三年兄の死去に伴い嫡子となり、部屋住料として前禄持ち込み二百石に百石を加え、地方三百石を知行した。同六年父の死去により家督を相続。この時部屋住料を返上、遺領高八百石の内百石を叔父小左衛門忠重に分知して残り高七百石を食邑した。忠重はのち罪を蒙り、禄を収められて家名は断絶した。善定は家督後、寛永十一年主家南部重直に従って将軍家光の上洛に供した。慶安四年留守居。次いで万治二年家老となり、寛文四年に主家重信が二十九代(三代藩主)を襲封の時、江戸城に四家老が随身、その一人を勤めた。同六年志和郡江柄村(紫波町)に三百石を、のち切添新田百石を加増、高千三百石となる。延宝四年四男久馬助定高(のち伊兵衛)に新田分三百石を分知、残り高千石となった。貞享三年死去した。石鳥谷町史によれば、善定は寛文八年及び貞享三年に八幡寺林通代官を勤めたとしている。前者は盛岡藩雑書を引いているが明らかに史料の誤読である。後者は地方文書を引いているが、推して同様の誤りであろう。その跡を長男求女助長定が病身を以て二男内蔵介(のち治太夫)定清が嫡子となり相続した。元禄二年家老となり、同三年死去した。その跡を力之助光定(のち内蔵助)が相続、花巻郡代となり宝永四年死去した。その跡を二弟軍助定照(のち治太夫、斎院)が末期養子となり順相続をした。定照は初め叔父伊兵衛定高の養嗣子となったが、元禄四年養父が失禄の後実家に帰り、宝永四年兄光定の跡を継いだ。正徳四年家老となり、命によって斎院と名改めをした。享保三年退役。同六年死去した。その跡を末家奥瀬伊右衛門定之の三男治太夫定恒が末期養子となり相続した。同十七年側頭家老見習となり、同二十年退役、隠居して関水と号した。天明元年死去した。その跡を嫡子伊之助定孝(のち定覧、定親、定景 内蔵)が相続。側頭を勤め、延享五年家老となった。宝暦四年死去した。その跡を嫡子軍助定職(のち定冨、のち道載、嵩尹 要人)が相続、御側頭を勤め、明和七年家老側頭兼帯となった。安永四年金方百石を加増、高千百石となり、同八年退役。同九年家老再役、同十年幕府軍役の甲州(山梨県)川々普請手伝いに惣奉行を勤めた。天明四年主家利敬が三十六代(十代藩主)を襲封の時、江戸城に三家老が随身。その一人を勤めた。寛政七年百姓愁訴の時、失政の責を以て罷免。半地取上、高五百五十石となれ、享和元年隠居、静常のち拙斎と号した。好学の士であったという。文化八年死去した。その跡を内蔵助嵩儀(定武とも のち内蔵)が相続した。嵩儀は享和元年部屋住で御側頭を勤め、同年家督を継いだ。同二年家老側頭兼帯となり、文化二年御側頭を退役。同八年江戸で死去した。その跡を治部嵩棟(のち内蔵)が相続した。天保三年御側頭となり、同四年家老見習、同年家老本役となった。同八年金方三百石加増、高八百五十石となった。同十一年金方百石加増、高九百五十石となった。同年家老近習頭(天保八年御側頭を改名)とも休息となり、安政元年死去した。その跡を与七郎が相続、新番組番頭を勤め同二年隠居。その跡を嫡子源助嵩昆が相続した。新番組番頭、御側詰を勤めた。元治元年末家奥瀬四郎助に地方五十石、金方五十石を分知、残り高八百五十石となった。明治初年本姓小笠原氏に復して小笠原尚と改称した。同十一年嫡子康健が相続、同年の士族明細帳によれば、康健は当時大沢川原十二番屋敷に住居していた。歴代の墓地は盛岡市北山の聖寿寺にある。天保十年の諸士知行平年所務書上によれば、高八百五十石の内地方五百五十石采地は二百石余を上田通江柄村(紫波町)に、十二石余を三戸通梅内村(青森県三戸町)に、三百三十七石余を五戸通奥瀬村(青森県十和田湖町)に食邑していた。


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