興津 おきつ

興津邦衛家 201227


 明治元年の支配帳に興津邦衛家がある。『参考諸家系図』は興津円四郎栄納を祖と伝える。文書によっては奥津と混用している。栄納は長門(山口県)府中城主毛利和泉守光広(五万石)の家臣某氏の子、母は元禄六年重信世子行信夫人(毛利和泉守光広女熊姫のち清浄院)が入輿の時、附女中として南部家に入り、のち行信世子実信附局となったと伝える。依て母の由緒により江戸で召抱られた。初め金三両二人扶持を宛行われ、のち母の願により、その禄を停めて母の擬金方二十両(高百石)を禄し定府となった。のち盛岡に移住した。「身帯分地並御加増之類」元禄十六年四月の条によれば、藩主行信の死去に伴い、従前、奥津岡右衛門の子権太夫に支給されていたという五両五人扶持は停止された。「系胤譜考」、「参考諸家系図」など系図上では岡右衛門は確認出来ないが、岡右衛門は栄納の通称であろうか。栄納に嗣子がなく、享保五年に帷子多左衛門登武の二男多五右衛門栄広が相続したという。前出の権太夫と栄広は同人であろうか。何れも未詳である。その後享保八年実父帷子多左衛門登武の願により、登武の隠居料十人扶持のうち五人扶持(高三十石)を配当相続し、高百三十石となった。享保十八年死去した。その跡を栄納の実子虎次郎(のち庄太夫)栄有が末期養子となり相続した。養父栄広が入籍後の誕生と知られる。雫石筏奉行を勤め、のち宝暦五年隠居した。その跡を帷子多次右衛門吉武の三男勇左衛門吉清が養嗣子となり相続した。岩崎番所番人、利雄世子信濃守(利謹、のち廃嫡)奥使を勤めた。天明四年以降晩年の事績は未詳である。文化三年の諸士屋敷並家図書上には嫡子藤右衛門の名で見え、その後文政十一年に隠居した。その跡を嫡子友治(のち円四郎)が相続した。中丸番子組頭、沼宮内通代官などを勤めた。文久四年隠居して眉翁と号した。その跡を嫡子邦衛吉乗が相続した。慶応元年金方十二石を扶持方に色替し、金方百三十石うち七人扶持となった。明治十一年の士族明細帳によれば、当時吉乗は下厨川村(盛岡市)百六十九番屋敷に住居していた。その跡を吉衛━吉文━えいと相続、当主の利一郎は愛知県に在住している。歴代の墓地は盛岡市大慈寺町の長松院にある。


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