岡井 おかい |
岡井益順家 200910101649 |
明治元年の支配帳に岡井益順家がある。『参考諸家系図』は岡井三悦の子三元時久(のち立斉)を祖と伝える。三悦は京都に生まれて医を業とし、晩年隠居して浄西と号した。その子三元時久(のち立斉)は京都に生まれ、のち江戸に出て親類西田忠兵衛方に同居。寛永初年利直から出入り扶持二百石を給せられ、同三年将軍上洛の時、利直に供奉。のち禄を辞したが、慶安二年更に召出され、地方百石を禄した。寛文十年隠居、この時隠居料三人扶持を給せられ、延宝元年死去し、盛岡城下聖寿寺に葬られた。その嗣子松雲政高は弟子養子だったので百石は収められ、更に五人扶持(高三十石)となり、更に天和二年、五駄加増で五駄五人扶持(高四十石)となった。貞享二年死去。本誓寺に葬られた。のち代々の墓地となった。 政高には養弟(養父の実子)立慶道薫(のち自庵)があり、医師として五代将軍徳川綱吉に仕えた。その跡を馬島安清の子玄卜が養嗣子となり相続、延宝八年家人となり、廩米二百俵を食禄、のち三の丸の番医となり享保七年死去した。子孫は二百俵を食禄して連綿と相続した。(「寛政重修諸家譜」)政高の跡は嫡子益庵政哲(のち益順、貞享三年相続、享保十年死去)━元孝高律(伊東元通門人で、町医佐藤栄安親高の長男)と相続。高律は享保十八年花巻に足高新田二十石を食邑、二十石五駄五人扶持(高禄六十石)となり、享保中隠居して尚絅と号した。その跡を嫡子益順律郷が幼少相続。のち将軍家典医望月三英に学び、医名があった。のち隠居して英驥と号した。その嫡子益順道高は部屋住で死去し、二弟尚之丞(のち尚絅)が利雄の治世に相続した。利雄の相続は宝暦二年であり、同年以降の相続と知られる。参考諸家系図によれば、その跡を亡兄道高の一子・忠庵が筋目の養子となり相続したとある。この後、管見する支配帳、役人面附で家筋を辿るが、それらの史料には忠庵は見えない。従って尚絅は宝暦二年以降の相続と知られるが、宝暦七年の支配帳に見える玄驥は、尚絅であるか忠庵かは未詳である。のち明和二年頃から安永末年まで英驥が見え、寛政十二年には尚絅が、文化十年前後からは元孝賀道が散見する。賀道は天保七年に隠居、その跡を養嗣子徳順(のち徳潤)恭道が相続した。その養嗣子尚絅孝継の碑文によれば、恭道は医師原安仲の子とあり、一方、文政九年の養子願によれば原安仲の弟子で、新渡戸図書家来飯盛直記の弟と記録している。並記して後考を俟つ。のち恭道は天保九年に玉山廉八秀親の三男睦孝継(のち、英驥、立斉、尚絅)を養嗣子としたが、弘化四年に奥医師立斉が見え、嘉永五年に尚絅がある。弘化から嘉永中に隠居したものと推定される。とすれば、のち恭道は再び当住となった。安政五年に奥医師となり、この時徳潤の名を拝領した。支配帳を辿る中では、その後、恭道の当住が一貫してあり、孝継には二度目の当住はなかった。孝継の相続関係は未詳ながら、つたえる処によれば、江戸に出て庭多紀法印元堅に医術を学び、また述斉と号し、詩歌を能くしたという。万延元年死去。碑文は江はた(巾へんに者)通高が表し、上野文鳳政良が書している。のち明治二年に恭道の家督孝継の子益太郎が祖父恭道の養子となり、嫡孫承祖した。明治十一年の士族明細帳によれば、新庄村(盛岡市)九十二番屋敷に住居と見える。その跡をリキが相続、当主の吉信は盛岡市に在住する。歴代の墓地は盛岡市名須川町の本誓寺にあり、高六十石一升二合の内地方三十石余は大迫通亀ヶ森村(大迫町)に食邑、残り高三十石は扶持方五人扶持を食禄していた。 諸士リスト(う?お) 盛岡藩士の家系メインリスト |