大矢 おおや 

大矢富弥家 200910101205


 明治元年の支配帳に大矢富弥家がある。『参考諸家系図』は大矢三郎左衛門房敬の三男の三郎助宗堯を祖と伝える。宗堯(三郎助のち五蔵)は享保十八年に召出されて物書となり、元文二年初めて二人扶持(高十二石)を禄した。寛延二年三駄、次いで一駄を加増せられ、四駄二人扶持(高二十石)となった。毛馬内蔵奉行、御用人所物書を勤め、宝暦十一年隠居した。その跡を八蔵(大矢利兵衛宗勝の三男のち惣右衛門)が相続。石間屋敷取次、金森兵部少輔頼錦構番、御用人所物書目付所物書兼帯を勤め、明和七年京都仙洞御所造営手伝の任に当たった。その跡を金之助(実弟、のち八蔵、惣右衛門)が末期養子となり順相続。御用の間物書、毛馬内蔵奉行などを勤めた。文化三年の諸士屋敷並家図書上に惣右衛門は見えるが、晩年は未詳である。その後嗣子八蔵房仲が相続、北地締役勤番中の文化八年ロシヤ人を捕虜にした。天保十二年死去。その跡を工藤氏より冨弥(のち五蔵)が入嗣し相続した。雇勘定方、勝手方物書、維新後は監察兼補務を勤めた。明治七年に嫡子精助が相続、明治十一年の士族明細帳によれば、加賀野村(盛岡市)七番屋敷に住居と見える。精助は明治四年藩兵半隊長、次いで鎮台に入隊後神官となり、更に同七年鉄道寮に勤務、同十四年日本鉄道会社理事委員。次いで同十八年に鉄道創業理事委員会を結成し仙台、盛岡、青森間の鉄道施設(後の東北本線)工事促進に当たった。一方、同年有志と諮り会社組織としては岩手県最初の北上廻漕会社を設立、推されて社長に就いた。明治二十一年死去。享年四十九歳。地方公共に尽くすところ多い人材であった。その跡を馬太郎(中村友山の四男)が相続。若年から政治を志し、明治四十年に盛岡市長(五代・同四十三年迄)、大正二年に盛岡市議会議長、(同十四年迄)、同四年岩手県会議長、同五年貴族院議員(同七年迄)を歴任し、同七年岩手県農工銀行頭取、同八年岩手県会議長(同十年迄)、同十年原敬逝去による補選で衆議院議員( 年迄)に当選した。昭和九年盛岡市長(九代)となり、同十四年現職で死去した。地域の発展に尽力した功労者として、盛岡市は初の市葬の礼を施行し報いた。歴代の墓地は盛岡市本町通の大泉寺にある。


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