大矢 おおや 

大矢多膳家 200910100134


 明治元年の支配帳に大矢多膳家がある。『参考諸家系図』は、摂津茨木(大阪府)の人、大矢三右衛門房如を祖と伝える。房如は豊臣秀吉に仕え千石を領したと伝える。その子清左衛門房因はのち加藤左馬助嘉明に会津(福島県)に仕えて二百石を領したが、寛永二十年に主家(嗣子式部少輔明成)が国替の時浪人となった。慶安中、南部家に召出され地方二百石を知行、寛文二年死去した。房因に二男あり、長男三郎左衛門房好(延宝七年死去)が家督を相続、次男三右衛門勝治は別に召出され、高百五十石を食み分家した。房好の跡を嫡子利兵衛房政(のち三郎左衛門、貞享三年死去)━三郎左衛門房敬(正徳三年死去)と継いだ。房敬に三子あり、長男利兵衛宗勝は相続後、寛保二年に隠居して順水と号し宝暦二年死去した。次男七太夫房勝は兄宗勝に嗣子がなく、宝暦二年兄の家督を順相続。同八年隠居して有慶と号し、明和六年死去した。黒沢尻物留番所番人、宗門奉行を勤めた。三男の三郎助宗堯は享保十八年物書に召出され、現米四駄二人扶持(高二十石)を食禄して別に家を興した。
房勝の跡を隠居宗勝の実子増次郎(のち清太夫、清左衛門、清右衛門)が筋目により嫡子となり相続した。実は増次郎は房勝が家督を相続後に生まれた甥であった。座敷奉行、徳田傳法寺通代官、者頭、目付、七戸通代官などを歴任して寛政十年死去した。その跡を嫡子兵馬房明(文政三年隠居後、同年死去)━勇太房則(多賀佐宮三男)と継いだ。房則は藩主利済の信任厚く、目付、大目付、大目付格寺社町奉行、元〆、御用人を歴任。嘉永三年隠居の後、安政元年再び当住となり、文久元年隠居、同二年死去した。心眼流劔術を根市貢に師事して同流師範となり、根市判左衛門に奥義を伝えた。嫡子勝衛房清(のち岩之丞)は、初め嘉永三年に家督を相続したが、安政元年父の再当住により再嫡子。文久元年父が二度目の隠居によって再び当住となった。表目付、目付を勤め、文久二年蝦夷地勤番中に、エトモで客死した。その跡を嫡子多宮房重(のち多膳)が相続。中奥小姓、長柄頭、者頭を、維新後は権監察、権大属、盛岡県常備分隊長、半隊長などを歴任した。明治十一年の士族明細帳によれば、当時加賀野村(盛岡市)百二十八番屋敷に住居と見える。その跡を謙太━勇と相続したが家名は絶えたが、旧盛岡藩士桑田の権利継承者は西根町に在住する。歴代の墓地は盛岡市本町通の大泉寺にある。地方二百石の采地は八十四石余を鬼柳通煤孫村(北上市)に、五十二石余を沼宮内通田頭村に、十四石余を同通野駄村(以上八幡平市)に、五十石余を五戸通米田村(青森県十和田市)にあった。


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