大森 おおもり

大森重右衛門家 200910101095

 
 明治元年の支配帳に大森重右衛門家がある。『参考諸家系図』は二戸郡浄法寺の人、大森助五郎盛清の裔、五郎右衛門盛定三男大森金右衛門豊盛祖と伝える。盛清は初め浄法寺修理重好譜代の臣であったが、慶長六年主家浄法寺氏が滅亡の時に浪人となり、浄法寺に住居。明暦三年死去した。その子甚右衛門盛常(のち七右衛門)は、寛文九年旧主末裔松岡八左衛門好忠が浄法寺通(二戸市)に新田千石を知行した時、申し立てによってそのうち松岡村、長流部村(以上二戸市)、荒屋村(八幡平市)に與力新田を領し、福岡與力となった。寛文十年死去。その子五郎右衛門盛定は寛文十一年に家督を相続、延宝八年に父の請けた新田を披立して、精検地を受け、高九十石となった。元禄八年浄法寺通が南部主税政信に分地用地となるのら伴い、代替地を鹿角郡芦名沢村(秋田県鹿角市)、三戸郡田子村、同種子村(以上青森県三戸郡田子町)に領した。宝永四年芦名沢村の川欠高の代替地を二戸郡金田一村(二戸市)に野竿高で知行。同五年代官の年功申立により福岡給人となった。正徳元年死去した。盛定に三子あり、
その跡を長男甚右衛門盛秀が相続、明治元年の支配帳によれば、子孫啓蔵は福岡給人で地方五十石八斗二升七合を知行した。 盛定の二男八郎兵衛忠房は宝永中福岡より料理方に召出されて四駄二人扶持(高二十石)を禄し、子孫は明治元年の支配帳には、料理方大森与次郎三駄二人扶持(高十八石)、料理方並大森新太郎一人扶持(高六石)外二両給金と見える。
盛定の三男金之丞(のち金太夫、金右衛門)豊盛は、宝永六年福岡より鳥討に召出されて二人扶持(高十二石)を禄し、正徳二年四駄加増、四駄二人扶持(高二十石)となり、享保二十年死去した。その娘銀は三十四代利視の側室となり、千代太郎を産み、のち荒木田左仲為春の妻となった。豊盛の跡を長男金之丞盛以(のち重右衛門、安永三年死去)━金太夫(のち官右衛門、金右衛門、寛政五年死去)━良右衛門尹親(乳井平左衛門正峰の二男、のち重右衛門)と相続。尹親は文政三年勤中三駄加増、同五年三駄を本高に加増、七駄二人扶持(高二十六石)となった。物書頭、盛岡本蔵奉行を勤め文政十三年隠居。天保二年死去した。その跡を重治(山辺隣助の二男、のち重右衛門、重郎)が相続、慶応元年物価高騰を以て本高同様の手当米四石を支給され、手当米共で三駄四人扶持(高三十石)の実収となった。御用聞を勤め慶応三年現米一駄を加増、八駄二人扶持(高二十八石)となり、但し実収は手当米共で三駄四人扶持(高三十石)、従前通りとされた。嫡子久之助(のち幾右衛門、良右衛門、巌)は部屋住で銅山舗内改役、諸木植立吟味役、奥錠口番、鉄山吟味役を勤め、明治二年家督を相続した。その跡を同七年茂樹(初め直次郎)が相続、同十一年の士族明細帳によれば、当時上田小路一番屋敷に住居と見える。その跡を尹━重郎━きくと相続した。尹は岩手県会議員を勤めた。歴代の墓地は浄法寺町の福蔵寺にある。


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