大巻 おおまき

大巻勇助家 200906100479

 
 明治元年の支配帳に大巻勇助家がある。『参考諸家系図』はを祖と伝える。
盛岡藩の家臣に川村九郎右衛門秀宗の二男大巻喜六秀胤を祖と伝える。秀胤は初め川村可清、次いで金八郎、のち大巻喜六を称し、知還と号した。貞享二年世子行信に、川村氏で召出され、側小僧となった。この時剃髪して可清を称し、近習に仕えた。四季施若干を禄した。貞享四年世孫実信附を勤め、儒学を学んだ。元禄二年藩命により林大学頭信篤の門人となり、その学寮に入った。元禄十三年召還となり、この時、命により大巻氏と改め、五両二人扶持(高三十七石)を禄し、同年更に二人扶持を加扶持、四季施を本禄に改め、十五駄五人扶持(高六十石)となった。書物奉行小納戸兼帯を勤めたが、藩主行信に儒学を以て仕えた人として、また能書家知られる。元文六年隠居、寛保二年に死去した。その跡を左平太秀易(岡井益順政哲の養弟、内実・政哲の弟岡井浄意光貞の子、のち喜左衛門、勝左衛門)が相続、沢内越中畑番所番人などを勤め、宝暦四年隠居した。その跡を花巻給人戸田忠兵衛の養弟勇助秀詮(号鳳陽)が相続。勘定頭(倹約取締用懸、升掻器改方)、目付当分、福岡通代官、田名部通代官などを歴任した。著書に御升一巻・奥南餘録・邦内郷村志八巻等がある。享和元年死去した。その子要蔵秀篤(号子翰)は円傳流鎗術を小島嘉左衛門満近に学び同流師範となったが享和元年家督前に死去。師範は四戸清左衛門政識に戻し、家督は嫡孫承祖。秀篤の子忠助秀惇が祖父の跡を相続して天保九年死去。その跡を嫡子勇(弘化三年死去)━勇蔵秀冨(のち勇助、新番組番子組頭)とが相続。明治十一年の士族明細帳によれば、下厨川村(盛岡市)二百一番屋敷に住居と見える。その跡を六三━憲造と相続、当主のチヨは盛岡市に在住する。歴代の墓地は盛岡市名須川町の龍谷寺にある。


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