大槌 おおづち

大槌直治家 200808

 明治元年支配帳に大槌直治家がある。『参考諸家系図』によれば遠野横田城主阿曽沼朝綱の次男にして、閉伊郡大槌に拠った遠野次郎を祖と伝える。次郎は三戸南部十四代南部義政から勲功の賞として大槌を賜った(系胤譜考)とされるが、この時の合戦であろうか、義政の父守行が気仙郡に出馬した帰途、「大槌之夷」の蜂起鎮圧のために出陣して流れ矢に当たり、遠野で死去したとの伝もある(「祐清私記」)。居城大槌城(浜崎館・古館)は標高二二〇?一五〇メートル、東西六〇〇メートルに及ぶ典型的な山城(岩手の城館跡)。城跡は平成四年県指定文化財となった。大槌氏は在名によるもの。守行・義政期の南部氏の事跡には確たる徴証がなく、大槌氏の動向も未詳。ただし系図類には大槌氏と気仙郡菊池氏や閉伊郡船越氏との姻戚関係が記されており、大槌氏が三陸沿岸にそれなりの影響力を持ったことは確かだろう(大槌氏の系譜は岩手県史)第三巻)。天正年間の大槌氏は孫八郎広紹(広信とも)、その子の孫八郎政貞は武勇の名声高く、三千石を支配するに至った。天正十九年の九戸政実の一揆鎮圧に従軍(南部根元記など)、慶長五年の和賀岩崎陣に従軍。五百石を領したが、のち勘気に触れて禄を収められ、配所で死去した。一書によれば、花巻城で殺され収禄と見える。子の三徳丸も捕らえられ処刑された。九歳であったという(内史略、南部史要、大槌町史、参考諸家系図など)。

 広紹に弟久右衛門広重があり、八十石の采地を鵜住居村(釜石市)に領したが、兄滅亡の時浪人となり、同所に住居、この時大槌氏を鵜住居氏に改めた。その子久右衛門、その子助十郎は浪人で死去。その子久次郎勝運は、母方の叔父箱石喜平次義久の養三男となり、箱石氏を称し、箱石理右衛門と名乗った。慶長六年平次義久の養三男となり、箱石理右衛門と名乗った。元禄年間料理方に召し出され、四駄二人扶持(高二十石)を禄し、同十五年二駄加増で六駄二人扶持(高二十四石)となり、享保八年料理方から士班に列した。同十四年隠居、元文四年死去した。その子久之助勝慶は享保十年部屋住料六駄片馬四季旛五両を禄し、御側役に召し出され、同十四年家督の時、部屋住料のうち六駄片馬を加増、十二駄片馬二人扶持(高三十七石)となり、のち九駄を三人扶持に色替した。同十七年大槌氏に復した。翌年六駄片馬を加増、十駄五十人扶持(高五十石)となったが、即日地方に色替され、采地を志和郡長岡村(紫波町)に食邑した。同二十年現米二十五駄を加増、高百石となった。徒頭側兼帯、鉄山奉行となり宝暦九年死去した。その前年嫡子半左衛門(初め豊次郎)勝冨は部屋住で父に先立ち死去、その子豊次郎は幼少であったため、勝慶の次男九郎作(のち織衛)を嫡子とし、豊次郎を九郎作の子に附けた。九郎作は同九年父勝慶の家督を相続。世子信濃守側役、同刀番、同奥使などを勤めた。天明四年以降の事績は未詳であるが、その跡を養嗣子豊次郎が相続。寛政十二年の支配帳には豊次郎同人の直見糺が散見する。既に代替わりの跡が知られる。糺は大奥附役などを勤め、天保八年死去した。その跡を永助(のち直治)英勝が相続、同年二人加扶持により高百十二石となった。座敷奉行舞台奉行兼帯、中丸本番組頭、長柄奉行を歴任した。明治十一年の士族明細帳によれば、当時上田村三百九十一番屋敷に住居していた。その跡を勝興、勝次と相続した。歴代の墓地は盛岡市愛宕町の正傳寺にある。高百十二石のうち地方五十石の采地を長岡通東長岡村(紫波町)に食邑、ほかに現米五十石と扶持方十二石があった。


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