太田代 おおたしろ

太田代傳右衛門家 200906100599

 明治元年の支配帳に太田代傳右衛門家がある。『参考諸家系図』は太田代宮内清也二男茂右衛門清幸の二男傳助恒房を祖を祖と伝える。
太田代�三� 恒房の父清幸は、天正十八年に没落の後も主家江刺氏に随伴。その長男治右衛門は父の跡を継いで江刺氏の家士となった。一方二男の恒房は本家太田代兵右衛門吉保養弟となり、元禄七年徒に召出されて六駄二人扶持(高二十四石)を食し、同十五年士班に列した。享保十八年沼宮内通巻堀村に足高新田二十六石を知行、高五十石となった。大迫通代官、福岡通代官、見前通代官などを勤め、寛保二年死去した。その跡を嫡子長左衛門恒愛が相続した。雫石手山奉行、大工奉行、作事奉行、黒沢尻通代官、金森兵部少輔頼錦構番、上田通代官、新山物留番所番人、大迫通代官、日詰長岡通代官、飯岡厨川通代官、世子信濃守奥使などを歴任、天明四年以降晩年の事績は未詳である。その跡を嫡子忠右衛門が相続。寛政元年国後・メシナの乱の折り、幕府の出陣待機の令に、平武者として大畑に出張した。同四年小奉行として松前に赴いた。文政三年頃まで散見するがその後は不明。同六年からは嗣子であろうか才市の氏名が散見する。才市は天保三年死去した。その跡を嫡子田太(のち良左衛門、嘉永七年に無嗣子で死去)━長蔵(実弟、安政四年死去)━佐蔵(文久三年に死去)━傳右衛門恒久(のち傳五郎、明治十一年の士族明細帳は文久二年家督に作る)と相続。明治十一年の士族明細帳は加えて下小路二十三番屋敷に住居と伝える。恒久の跡を恒三が相続、その子で当主の正造は盛岡市に在住する。


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