太田 おおた

太田勇蔵家 200711100359

 明治元年の支配帳に太田勇蔵家がある。『参考諸家系図』は佐々木支流太田伊兵衛択道の子七右衛門高春を祖と伝える。高春は本国を近江(滋賀県)と伝え、江戸に生まれた。藩主重信の時に江戸で召抱えられた。金方七両二歩七人扶持(高七十九石五斗)を禄して、延宝八年死去した。その跡を上総(千葉県)高瀧領主(高二万石)板倉頼母重高の臣永谷太郎兵衛の弟伊兵衛春定が養嗣子となり相続。初め部屋住料として四季施六両を受け、世子行信の能脇士相手を勤めた。次いで世孫実信附となり延宝八年家督を継いだ。この時、部屋住料六両を本高に加増、金方十三両二歩七人扶持(高百九石五斗)となった。賄奉行、次役を勤め享保四年隠居、同年死去した。その跡を嫡子八郎右衛門春州が相続。初め部屋住料として三人扶持四季施七両を受け、次役となり、藩主利幹の能脇士相手を勤めた。享保四年家督を相続、同九年死去した。弟義方は母方の氏を冒かし上領玄泰で医師として仕えた。家督は相内太夫儀典の二男忠太夫春良(のち伊兵衛、八郎右衛門)が養嗣子となり相続した。世子信貞の先供、雫石橋場番所番人を勤め宝暦五年隠居、明和九年に死去した。その跡を大槌給人小川惣右衛門好謹の二男忠太夫春房(のち忠助)が養嗣子となり相続。世子利謹次役、雫石通代官、徒頭、側役勘定頭兼帯などを歴任した。勘定頭勤中には藩財政逼迫のため金銭繰り専坦を命ぜられ、銅山用掛、立林用掛、桑茶楮植立用、田名部山用を勤めた。上屋敷類焼に際して普請用懸の任にあたった。その後目付となり、番割御用懸、由緒御用懸を勤めた。その後者頭、留守居格元締となり、安永十年幕府軍役の甲州川々普請には元締めとなり、天明三年の不作には救御用懸、田畑仕付懸を勤めた。その後花巻郡代、用人と累進した。その跡を嫡子良右衛門(のち達見)が相続した。その時期は未詳だが、寛政十二年には既に良右衛門が見え、文政三年には良右衛門改め達見が見える。次いで同六年には達見同人であろうか忠太(のち忠助、同七年死去)が相続。その跡を継弥(無嗣子で同年急死)━叔父忠吾(末期相続、同十一年死去)が末期養子となり家を継いだ。しかし忠吾も。その跡を官平(続柄未詳、末期相続、同十三年死去)━時之助(のち忠太夫、静吾、座敷奉行)━勇之助(のち男也、嘉永七年隠居)━浦田左右の二男勇蔵春賞(のち巽)と嗣いだ。明治十一年の士族明細帳には、下小路四十六番屋敷に住居と見える。その跡をヤス━豊吉と相続、当主の竹治は盛岡市に在住する。歴代の墓地は盛岡市本町通の大泉寺にある。


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