太田 おおた |
太田小十郎家 200710100425 |
明治元年支配帳に太田小十郎家がある。『参考諸家系図』によれば太田民部少輔義勝の次男小十郎義房を祖と伝える。義房は慶長十八年父義勝の遺命により和賀郡沢内に三百石の釆地を分知され家を興した。同十九年大坂冬の陣に義房は御前衆として従軍した。寛永年間死去。その子主計は旧領のうち二百石を相続、寛文年間死去した。その子小十郎久義は父主計死去の時幼少のため家督相続を認められず、一生を浪人で過ごした。その子三之丞久政は天和四年召し出されて家老次となり、四季施金一両二歩二人扶持を禄した。元禄十六年に二人扶持加増により四両三人扶持となったが、宝永二年金方を現米に替えて十駄三人扶持(高三十八石)となった。久政は正徳元年死去した。その跡は三之丞久良(享保三年歿)━孫助久時(久良の弟、本丸末用達など、安永二年歿)━縫右衛門久誉(本丸末鍵番など)と継いだ。天明四年以降の事跡は未詳である。寛政十二年の支配帳には伊右衛門、文化三年の諸士屋敷並家図書上には小十太、文政三年の支配帳には末司の名が見える。久誉とそれぞれの相続関係は未詳であるが、末司栄久は南部錦之助(謹諧・藩主利済次男)相手・納戸役を務めた。栄久は天保五年三人加扶持で十駄六人扶持(高五十六石)となった。新当流鎗術を野々村円蔵雅吉に師事して同流師範となり、野々村秀太雅知にその奥義を継承、天保十年に死去した。その跡を嫡子三平(のち小十郎)久徹が相続、七戸通代官・小納戸などを歴任した。天保十一年金方二十石を加増されて高七十六石となり、百石座に据えられた。慶応元年現米三駄を扶持方に替えて金方七十六石、うち現米七駄六人扶持となった。久徹は新当流鎗術を新田目忠七秀積に師事して同流師範となり、佐藤親長にその奥義を継承、明治三年に隠居、同六年に死去した。その跡を平市(のち孝)が相続し、部屋住中から中奥小姓・供頭・納戸兼帯、維新後は権内監などを歴任したのち家従頭取となり、同職勤中の明治三年、父の隠居に伴って家督を嗣ぎ、明治三十一年死去した。孝は市河米庵に入門、米庵・遂庵父子に学び、米庵流の書家として知られた。楢山佐渡碑や桜山神社額など遺作多数がある。詩歌をよくしたほか、著書に『古今和歌集講義録』十巻、『日光扈従紀略』『利剛公御参内記』(共著)などがある。その子小二郎は明治十八年北上廻漕会社別立とともに副社長に就任。のち同社社長となった。同十九年盛岡銀行の創立に尽力、翌年同行取締役となった。同四十四年岩手県農工銀行取締役、大正十年盛岡銀行代表として盛岡貯蓄銀行の創立副委員長の任に当たった。同十三年に死去した。その子孝太郎は初め横浜正金銀行に入行、大正九年盛岡に帰り盛岡銀行支配人、のち同行常務取締役となり、郷土財界に貢献した。東洋史学、中でも印譜学は、史学界における第一人者といわれ、『漢魏六朝官印考』十二巻がある。郷土史の研究と普及に貢献し、『南部叢書』『盛岡市史』の編纂に尽力した。そのほか著書には『定本書道全集別巻印譜篇』『古銅印目録』『岩手県金石志』『盛藩官私印譜』など多数ある。九州の志賀島から出土した「漢委奴国王の金印」が一部の学者によって偽物とされた時、真物であることを鑑定して現在国宝となっていることは有名である。昭和四十二年死去。その跡を弟二郎が継ぎ、現当主稔は盛岡市に在住している。歴代の墓地は盛岡市の久昌寺にある。 諸士リスト(う?お) 盛岡藩士の家系メインリスト |