太田 おおた |
太田春治家 200710100821 |
明治元年支配帳に太田家がある。『参考諸家系図』によれば和賀薩摩守の支族太田民部を祖と伝える。戦国期、和賀郡太田(沢内村)に拠った太田氏は和賀須々孫氏の一族、現在の沢内地方を支配していたという(奥南落穂集)須々孫氏の被官とも考えられる。現在は亡失しているが、天正二年七月の紀年銘の供養塔の板碑一基があったことが知られ、その施主の一人に太田縫殿の名が見える(岩手の歴史論集2)。また、この時の導師として「□泉寺法印義正坊」が見えるが、「□泉寺」は太田の曹洞宗玉泉寺か。さらに、八幡神社のある丘陵には八幡館の存在が確認されており、太田氏の居館と推定されている(城郭大系2)。ほかに深沢館や三角山館がある。系譜上詳しい事跡が伝えられるのは、戦国末・近世初頭の太田民部少輔義勝からで、義勝は盛岡藩主南部信直に出仕、太田に住して八百石を知行した(奥南落穂集)。『奥南落穂集』には、義勝の嫡子縫殿助久義は南部利直に仕えて五百石を知行、次男小十郎義房には三百石が分知されたと見える。一方寛保元年書上系図『系胤譜考』によれば、久義は慶長年間に家督を相続して縫殿助、のち伊右衛門を称し、小者頭を務め、元和四年死去したという。また、久義の弟小十郎義房の譜に従えば、慶長十八年父の遺領を相続した際、兄伊左衛門久義連名の証文を受け所持していると記し傍証した形ではあるが、久義の没年を含め伝えが錯綜していることに違いはない。その子縫殿助義興は沢内村・猿橋村(以上沢内村)などに三百石を知行した。慶安二年書上といわれる『南部氏諸士由緒』によれば、縫殿助義興は父縫殿助久義が五百石を知行して馬廻りを務め、和賀岩崎の陣の時に戦死、その跡を自分が相続したと、書き上げている。慶長十九年大坂冬の陣に乗掛供衆として従軍。寛永十一年主家南部重直に従って将軍家光の上洛に供し、寛文元年死去した。その子縫殿助義同は者頭を務め、同年死去。義同の跡を長男惣十郎義政が相続、幼少のため沢内に半地百五十石を知行したが、同四年死去して禄を没収された。寛文八年には義政の弟伊八義捷が世子行信に召し出され二人扶持(高十二石)を禄し、延宝三年には八駄加増され、八駄二人扶持(高二十八石)となった。義穂は享保四年に隠居して同六年死去。その跡は新七義定(安宅市郎右衛門勝平の三男、元文四年歿)━伊七義方(寛保三年歿)━喜右衛門(火の廻り・取次・宗門奉行手伝、安永六年歿)━小四郎(中村七之丞の子、川奉行川除普請奉行兼帯)と継いだ。天明四年以降については未詳であるが、寛政十二年の支配帳に見える伊右衛門も任期未詳ながら川奉行川除普請奉行兼帯を務めている。小四郎と同一人ではなかろうか。その後文政三年の支配帳に嗣子円助の名が見える。文政初年の家督であろうか。円助は盛岡本蔵奉行を務めた。慶応元年物価高騰により本高岡様の手当米二石を支給され、手当米共で三駄四人扶持(高三十石)の実収となった。その後慶応二年嫡子春治諠尊が相続し、二子万丁目通代官所下役を務め、明治六年には嫡子義豊が相続し、同十一年の士族明細帳によれば、下米内村(盛岡市)四十二番屋敷に居住していた。その跡をナオ━金治と相続、現当主テルは盛岡市に居住。 諸士リスト(う?お) 盛岡藩士の家系メインリスト |