太田 おおた

太田郡左衛門家 200711100394

 明治元年の支配帳に太田郡左衛門家がある。『参考諸家系図』は太田源四郎忠能の四男藤兵衛忠具を祖と伝える。忠具は浄法寺のうち杉沢村(二戸市)で出生。成人の後江戸に出て藩主利幹の生母心光院(岩間九右衛門政次女ユリ)の配膳小者となり、麻布邸に勤めた。のち年功により物書となった。その後心光院の願によって、太田氏を以て刀差に召出され四両二人扶持(高三十二石)を禄した。享保九年士班に列し、この時母方の杉沢氏に改めた。同十九年江戸で死去、愛宕下の智相院に葬られた。その跡を嫡子杉沢長十郎忠能(のち太田平太左衛門)が相続した。部屋住で世子信貞幼少の相手を勤め、享保十九年家督の跡は側役を勤めた。延享四年三人加扶持、四両五人扶持(高五十石)となった。その後宝暦五年に地方五十石、同十四年目付となり百石を加増され高二百石となった。明和二年命により太田氏に改め、側用人に登用された。のち故あって役御免となり同七年死去した。その跡を嫡子長十郎(のち寛左衛門)が半地取上を以て相続、地方百石うち五人扶持となった。「篤焉家訓」は「御家中身帯減少或断絶名面」でこの時「本名杉沢となる」とするが、傍証する資料を見ていない。岩崎番所番人、座敷奉行表給仕、舞台奉行、沼宮内通代官、八幡寺林通代官、福岡通代官をなどを勤めた。寛政十二年の支配帳に太田寛左衛門を見るが、晩年については未詳である。その後文政三年の支配帳に嗣子であろうか衛門太がある。五戸通代官などを勤め同十年隠居した。その跡を花巻役医阿部立卓の弟・右左馬(のち寛左衛門)が養嗣子となり相続。花輪通代官、徒頭、毛馬内通代官などを勤めた。天保十年その跡を嫡子郡左衛門(のち稼千馬、志輔)が相続。膳番、中丸番子組頭、花輪通代官、毛馬内通代官などを勤めた。その後明治四年養嗣子冨治(のち徳治)忠実が相続、同十一年の士族明細帳によれば、当時下米内村(盛岡市)十五番屋敷に住居と見える。その跡を謙太郎が相続、当主の清一は東京都に在住する。歴代の墓地は盛岡市愛宕町の恩流寺にある。高百石のうち地方七十石の采地は、五十石を雫石通雫石村に、二十石を沼宮内通一方井村(岩手町)に知行していた。

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