太田 おおた

太田源吾平家 200711100318

 明治元年の支配帳に太田源吾平家がある。『参考諸家系図』は太田源四郎忠能の三男源太夫忠経を祖と伝える。忠経は寛文中小姓に召出され同七年現米十駄(高二十石)を禄した。のち駕籠頭となり二人加扶持、延宝五年浄法寺のうち太田村(浄法寺町)に二十四石を加増、高七十石となった。「身帯並御加増分地被召出之類」には切米二十三駄に合わせ高七十石とある。この間の事情は未詳である。延宝八年更に現米三十石を加増、高百石となり、正徳元年死去した。その子円助忠章は部屋住で父に先立ち死去。その子源助忠英(のち源太夫)が嫡孫承祖、祖父の家督を相続。毛馬内通代官を勤めた。その跡を亀次郎規忠(のち源左衛門、延享三年死去)━治五郎忠友(実は五日市某の子、内実楢山五右衛門の家士茂市源六の子、のち源太夫、源左衛門)と嗣いだ。雫石橋場番所番人、筏奉行、福岡通代官、廻役、鬼柳通代官、八幡寺林通代官、下屋敷広敷用聞、見前向中野通代官、南部信濃守附、三戸通代官、五戸通代官などを歴任した。忠友の晩年は未詳である。その後寛政五年に嗣子であろうか、沼宮内通代太田源五平(初め吉次郎、吉之丞のち源五平)が散見する。安俵高木通代官、野辺地通代官、上田通代官、見前向中野通代官、田名部通代官を勤め文政八年隠居した。その跡を嫡子助作が相続、目付を勤め天保八年死去。その跡を治五郎(のち源五平)が相続、納戸役を勤めた。その後明治二年嫡子啓八忠雄が相続、武具奉行を勤めた。明治十一年の士族明細帳によれば、当時新庄村(盛岡市)八十一番屋敷に住居していた。その跡を実が相続、その子で当主の小五郎は福島県に在住する。高百石のうち地方二十四石の采地は五戸通石沢村に知行していた。


 諸士リスト(う?お)

 盛岡藩士の家系メインリスト


一覧にもどる