大萱生 おおがゆう |
大萱生長左衛門家 200621 |
明治元年の支配帳に大萱生長左衛門家がある。『参考諸家系図』は河村四郎秀清の後裔河村飛騨秀定の子大萱生玄蕃秀重を祖と伝える。秀清は相模の波多野氏族、波多野三郎秀高の子で、兄三郎義秀とともに足柄郡(神奈川県)川村の在名により河村を名乗ったという。文治五年源頼朝が奥州藤原氏を追討した時に、秀清は阿津賀志山(福島県)で先駆けの功績を上げ、その賞として陸奥志和郡のほか、耶麻郡(福島県)、名取郡(宮城県)の地頭職に補された。その子太郎政秀、二郎光秀、佐藤五政家等の後が志和郡に下った。大萱生氏は参考諸家系図によれば秀清二男の家と伝えている。南北朝時代には山城権守秀安は南朝方に属したが、明応の頃から家衰え斯波氏の重臣となった。子孫飛騨秀定は、斯波安芸守詮愛に仕え鷲のように剛勇の者と賞され鷲内氏を授けられたと伝える。天正十六年その子鷲内玄蕃秀重は、主家滅亡の時、中野修理の勧めにより南部家に降参し。旧領六百五十石を安堵された。その後旧主斯波民部大輔詮元は同郡山王海に潜居していたが、同十七年秀重は旧主に請われるまま暫く大萱生城に扶助した。これが謀反と疑われ、城攻に遭い、逃れて砂子沢村甲子山中大戸壁に潜居した。同十八年中野修理の歎訴により召還、本領を安堵された。この時在名から大萱生と改めた。慶長六年和賀岩崎陣に従軍、寛永十一年主家南部重直に従って将軍家光の上洛に供した。同十二年隠居して大萱生館に住居した。神仏を深く信仰し、武蔵川越蓮光寺の住持性翁に帰依して天正十二年早池山龍源寺を建立した。寛永十八年死去して同寺に埋葬された。 同族に日戸、渋民、玉山、川口、下田、沼宮内、川村、杤内、江柄、大巻、中村氏等があり、秀重の子孫は、明治元年の支配帳によれば大萱生氏は当家のほか、支流二家 一、七十一石一斗三升八合 大萱生練八家 一、三十二石 大萱生忠左衛門家 と他に 一、百石 川村孫助家 一、三十二石 川村喜六家がある。 玄蕃秀重の跡は長男与一郎秀直が部屋住で罪を蒙り、煙山村に蟄居していたため、二男の長左衛門秀春がその家督を相続、同年三戸城代となった。この年冬、采地大萱生村の核なし烏帽子柿を献上、毎年献上が恒例となった。万治中隠居して法山と号し大萱生舘に居住、寛文七年に死去した。長男庄左衛門は父の番代を勤めたが、部屋住で死去したため、その跡を二男の長左衛門秀就が相続、天和四年江戸で死去した。麻布某寺に葬り、のち盛岡聖寿寺に碑一基を建立した。ちなみに寺傳に寄れば、父秀春は八十九歳で死去、秀就は四十二歳で死去とある。これに従えば秀就は父六十五歳の時の子となる。なお秀就に弟庄右衛門秀正があり、同様に行年から逆算すれば秀正は父八十五歳の時の子となり、可能性として否定も出来ないが、傍証史料による検証の要あることを付記する。その跡を貞享元年嫡子長左衛門(のち玄蕃、監物)秀記が相続、元禄十二年騎馬役にて藩主行信の供登り、同十三年供下り小身者頭を勤めた。宝永二年志和郡大萱生村、乙部村、砂子沢村、紫野村に切添新田九十二石二斗七升余を加増され、七百四十二石二斗七升五合となり、同年千石の軍役で高知家格となった。享保三年死去した。その跡を嫡子兵馬(のち長左衛門、監物)秀安が相続。部屋住の内から番頭として藩主利幹の供登り、供下りを勤めた。家督後、享保六年八朔の使者を勤め、同八年死去した。その跡を嫡子長左衛門秀雄が九歳で相続、寛保二年死去した。その跡を分家大萱生庄左衛門秀安の長男長五郎秀貞が末期養子となり相続した。中丸番頭を勤め宝暦三年死去した。その跡を嫡子千代松(のち兵馬)秀妙が相続した。秀妙は実は秀貞の養父秀雄の没後に生まれた秀雄の遺児で、秀貞は筋目を以て嫡子としたものであった。中丸番頭を勤めた。天明元年二弟、実は養父秀貞の長男恒右衛門秀静に知行の内四十二石二斗七升五合を分知した。寛政四年隠居して満翁と号し、文化二年死去した。その跡を奥瀬要人定冨の二男泰司(のち石見、外衛)嵩高(のち秀庸)が養嗣子となり相続した。寛政九年末家恒右衛門秀静の名跡礼右衛門秀貫に七石七斗二升五合を分知、高六百九十二石二斗七升五合となり、七百石の軍役を勤めた。同十年家老となり勤中二百石を加増された。文化十年名を拝領して外衛を称し、また同年蝦夷地用の功績を以て勤中二百石の加増を家禄に加算され、高八百九十二石二斗七升五合となった。文化十二年依願退役。その後文政三年藩主利敬が死去を機に政変があり、同四年家老勤中の勤め方を以て、身帯のうち半地取上、隠居の上蟄居、家格引き下げで平士となった。文政九年蟄居を赦され逼塞となり、天保五年慎みを解かれた。同八年死去した。文政四年嫡子純之助(のち石見、中務、求馬)秀愿(のち嵩厚)が高四百五十石を相続、天保四年死去した。その跡を同五年嫡子廉之助(のち長左衛門、長蔵)嵩邦(のち嵩岳)が相続した。組頭、先手役、蝦夷地留守居兼表目付。維新後は監察、南部利恭家従頭取などを勤めた。明治十一年の士族明細帳によれば、当時川原小路七番屋敷に住居していた。その跡を嵩、嵩功と相続、その子で当主の容満氏は遠野市に在住する。歴代の墓地は紫波町大萱生の龍源寺にある。高四百五十石の采地は上田通大萱生村(紫波町)に百四十一石余を、同通乙部村(盛岡市)に二百六十六石余を、同通砂子沢村(盛岡市)に四十に石余を食邑していた。 諸士リスト(う?お) 盛岡藩士の家系メインリスト |