遠藤 えんどう |
遠藤多喜人家 200507 |
明治元年の支配帳に遠藤多喜人家がある。『参考諸家系図』によれば遠藤慶悦正利を祖と伝える。正利は生国伊勢(三重県)の人。江戸に住居して万治二年医師で召抱られ、地方二百石を知行した。のち盛岡に移り天和二年死去した。その跡を常陸土浦城主土屋相模守政直(茨城県・四万五千石)の家臣味木勘太夫の二男七兵衛(のち多左衛門)政方が養嗣子となり士分で相続。宝永七年死去した。その跡を嫡子儀右衛門政吉━七之助政幸(のち弥右衛門、使番、座敷奉行、上田通代官、黒沢尻物留番所番人、徒頭、側役を勤め、明和七年死去)━定八政登(のち幾右衛門、彼面、文化二年江戸で死去)━左治政啓(毛馬内蔵人直祝の四男、天保八年隠居、安政元年死去)━隼太政広(天保八年家督、小姓を勤め翌九年死去)━定八(安政四年隠居)━佐太郎政斉(のち多喜人、先手鉄炮頭)と相続した。明治十一年の士族明細帳によれば下厨川村(盛岡市)四百二十二番屋敷に住居と見える。その跡は政綱━政親と継ぎ、その子で当主の昭子氏は盛岡市に在住する。歴代の墓地は盛岡市名須川町の光台寺にある。高二百石の采地は四石余を毛馬内通大湯村に、四十七石余を同通寺坂村に、三十七石余を同通柴内村(以上秋田県鹿角市)に、七十七石余を三戸通田子村に、四石余を同通飯豊村に、二十五石余を同通山口村(以上青森県田子町)に食邑していた。 遠藤氏系統図 諸士リスト(う?お) 盛岡藩士の家系メインリスト |