遠藤 えんどう

遠藤民人家 200514

 明治元年の支配帳に遠藤民人家がある。『参考諸家系図』は遠藤惣右衛門勝房の二男遠藤利右衛門勝更を祖と伝える。勝更は藩主重信の時に召出され、はじめ無禄で御用の間物書を勤め、のち貞享三年に父勝房から切添新田二十二石の分地を受けた。のち筆頭に取り立てられ士班に列した。宝永三年に三駄、同七年に三駄加増、「身帯並御加増分地被召出之類」によれば、内実二人加扶持で二十二石三駄二人扶持(高四十石)となり享保十年に死去した。その跡を嫡子利六(のち惣兵衛、利右衛門)勝保が相続。南部彦九郎(藩主利雄弟・信起)物書、同賄、本丸取次、勝手方物書、本方金奉行、貞林員取次、新丸末鍵番を歴任、安永四年隠居した。その跡を嫡子弥右衛門(のち理右衛門)が相続。新屋敷鍵番、同取次、沼宮内蔵奉行を勤めて寛政五年に隠居した。その跡を嫡子兵蔵(文政八年死去)━五市(のち兵蔵、理右衛門、中奥小姓)と相続。理右衛門隠居(隠居名・南山)の跡を慶応三年に民人(のち兵蔵)が相続、者頭附差配役を勤めた。明治四年に同人が盛岡県に提出した先祖書上によれば、祖父を八十治、父を南山としている。文政八年に死去した兵蔵は八十治とも称したらしい。南山は父の隠居名と知られる。明治十一年の士族明細帳によれば、当時油町百三十番屋敷に住居していた。その跡を繁記━勝━梅次郎と相続、当主の昭子氏は埼玉県に在住する。歴代の墓地は盛岡市北山の法華寺にある。高四十石の内、地方二十二石の采地は、向中野通赤林村(矢巾町)に十八石余、飯岡通下飯岡村(盛岡市)に三石余を食邑していた。

遠藤氏系統図

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