遠藤 えんどう

遠藤文五郎家 200513

 明治元年の支配帳に遠藤文五郎家がある。『参考諸家系図』は遠藤利右衛門勝更の従弟遠藤三郎右衛門(のち平蔵)勝蕃を祖と伝える。勝蕃の出自には異説あり、「諸士給人由緒帳」では甥とある。ただし、どのような続の甥かは未詳ながら、史料の性格上、「諸士給人由緒帳」説に信憑性が高いと勘考せられる。勝蕃は宝永七年召出されて御用の間物書となり、正徳二年初めて二人扶持を食禄、同四年に四駄加増の後、享保九年祐筆となった。同十五年江戸にて五駄加増、合せて九駄二人扶持(高三十石)となり、寛延六年に隠居、宝暦六年死去した。長男・出及び次男卯之八が共に病弱かつ幼少であったため、その跡は母方の田鎖嘉太夫の弟登(のち定右衛門、佐五兵衛)が養嗣子となり相続した。角屋敷取次、謫人金森兵部少輔頼錦の構茶道、盛岡西根山奉行、川除普請奉行、本丸末用達、春木奉行極印奉行兼帯を歴任し、天明元年死去した。家督は養弟卯之八を筋目の嫡子としていたが出奔。実子左五助勝副が嫡子となり天明元年に相続した。目付所物書を勤め、文化十二年に隠居。同十三年死去した。その跡を鉄之助勝映(のち左五助、目付所物書、錠口番、植立奉行、雫石山奉行、宮古山奉行を歴任し安政三年に隠居して同四年に死去)━佐五郎(左五郎とも、元治元年に死去)━文五郎高実と継いだ。慶応元年十二石を色替して三駄四人扶持(高三十石)となった。明治十一年の士族明細帳によれば、大工町三十一番屋敷に住居と見える。その跡を顕一 ━ サダと相続、その娘和子氏は盛岡市に在住する。

遠藤氏系統図
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