江刺 えさし

江刺誠記家 200327

 明治元年の支配帳に江刺誠記家がある。江刺家は中世来江刺郡にあって宗家をも凌ぐ葛西の大族として知られ、重任の代に至り、天正十八年奥州仕置よって宗家葛西家とともに一旦滅亡。南部信直に召抱られたたが、家祖については諸説錯綜している。『内史略』所収の「葛西江刺両家譜略伝」によれば、稍異説はあるが、系胤譜考、参考諸家系図に通じる。しかし、文和延文の頃の江刺美濃守高嗣、応永永享の頃の江刺近江守信見、文明の頃の江刺美濃守隆見は実在の人物ながら系図上に伝わっていないこと。葛西宗清の二男左京大夫晴胤の室は江刺美濃守高嗣の娘であることなどから岩手県史は推して鎌倉期以来の江刺氏は滅亡。これを第一期江刺氏とし看做し、天文の頃から見える晴胤の甥に当たる江刺三河守重任の系は第二期の江刺氏ではないかと見ている。いずれも葛西の一族であったと推定されるが、その論拠は、内史略所収系図の重任の譜に見える「岩谷堂城に住居、江刺家祖也」などに求めている。県史がいう第二期江刺氏の略系は次の通りである。
  葛西清重━重高━■(ハの下に允)清━尚重━忠清━義清━清親━清昭━清経━清定━┓
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┗満良━満隆━持重━満胤━隆友━持胤━信重━満重━満清━宗清━重親━┳重任━
                                  ┗晴重━  
葛西江刺両家譜略伝によれば、明応四年重任は三弟晴重と共に上洛して将軍義澄に謁見したが、その後弟晴重が葛西の家督を相続、重任は江刺郡岩谷堂城に住居して江刺家の祖となり、重任の子治部大輔輝重が初めて江刺氏を称したという。一方、「参考諸家系図」に従えば、江刺三河守隆之(重任に相当)は実は葛西左京太夫晴胤五男で入嗣相続といい、重任が江刺家の祖とする説を否定している。その跡を「参考諸家系図」は治部少輔隆重を一代入れるが、嫡子兵庫頭重恒が相続、天正十八年に主家と倶に滅亡した。

 以上は近世の系図などが伝えるところだが、確実な史料での江刺氏の初見は康永元年と思われる鬼柳文書十月八日石塔義房書状で、南朝方の攻勢に対抗して足利方の総大将石塔氏が江刺・柏山にも軍勢催促を使わしたことが記されている。鎌倉初期以来葛西氏は奥州惣奉行として江刺郡を含む五郡二保を領し、所々に代官を配置して現地に支配を行ってきたが、代官の系譜を引く武士たちは幕府体制の崩壊と内乱のなかで独自の動きをみせるようになる。本書に見える江刺氏の動向もその一例として理解できよう。江刺・柏山両氏以外に、磐井郡の有力武士薄衣氏も、この時期南朝方についた葛西氏と干戈を交えたらしい。十五世紀後半の薄衣状に江刺三河守・弾正大弼の名が見え、薄衣美濃入道と共に葛西氏惣領家に反して奥州探題大崎氏に従っている。これを系図上の重親・隆見に比定する見解がある(葛西氏家臣団事典)。降って江刺市岩谷堂宝性寺太子堂所蔵棟札に「永正八年二月吉日、施主片岡平重朝」とあり、江刺氏の一族と思われる。ただしほぼ半世紀後の永禄十年十月の棟札(江刺市藤里智福毘沙門堂)にも大檀那として重朝の名が見え、なお検討の余地が残されている。大永年間とされる熊野早玉神社奉加帳に「江刺 平重治」とあり、この人物が十六世紀前半の江刺氏の当主だったのだろう。天文年間の大崎氏の内紛に際して伊達稙宗は江刺左衛門督に書状を送り、大崎義直への救援を求めている(伊達家文書六月二十五日稙宗書状)。左衛門督は系図中の重見(あるいは高見)に比定されているが(岩手県史第二巻)、奉加帳に見える重治かもしれない(石巻の歴史8)。兵庫頭重恒の初見史料は永禄二年六月朔日の江刺市岩谷堂光明寺仏像銘で、大檀那としてその名が見え、また、天正十五年とされる二月三日付葛西晴信書状の宛先の江刺兵庫頭も重恒だろう(一関市石川甚兵衛氏所蔵文書)。当時の江刺氏はむしろ葛西惣領家の晴信と厳しい緊張関係にあったらしく、葛西晴信書状には「江刺再乱」(浜田文書林鐘十一日書状)や「彼仁即不和之躰」(盛岡南部文書八月五日書状)などの文言が見える。そのためもあってか重恒は天正十八年の奥羽仕置直後の葛西大崎一揆にも加わらなかったらしく、むしろ南部信直より岩谷堂の守りを固め、一揆鎮圧に協力することを奨められており(茨城・江刺家所蔵文書十月二四日南部信直書状)、このことがのちに盛岡藩に仕える契機になったとも推測される。

 重恒は暫く閉伊郡乙茂村に潜居、長臣三ヶ尻加賀恒逢及び鷹買田中清六を介して浅野長吉に歎訴した。これによって天正十九年家臣等と倶に南部信直に出仕し、高二千石を和賀稗貫郡に食み、この内三百石を三ヶ尻加賀恒逢へ分知して残り千七百石を食邑した。稗貫郡新堀舘に住居、その子兵庫助重隆は家督の後も新堀舘にあった。文禄三年盛岡城築城には奉行並五人衆の一人としてその任に当たり、慶長中死去した。その跡を長作隆直が相続、同六年和賀岩崎再陣に従軍した。同十七年南隣する仙台領に対峙して和賀郡十二ヶ村(東和町)に土沢舘が築かれた時、その舘主となった。浅野家とは依然として親交が続いた。元和九年将軍徳川秀忠上洛の時、主家利直に供、京都で死去した。その跡を嫡子勘解由春隆が相続した。参考諸家系図は家督の年を寛永七年とするが、系胤譜考には、家督の記事を省略して寛永七年に居宅焼亡のことがある。参考諸家系図が同系図を引用する際に、家督のこと書き足し、寛永七年に包括した誤伝であろう。春隆は同十一年将軍徳川家光の上洛に主家重直に供。寛永中弟助之進隆次に高二百石を分知し、千五百石となった。同十八年死去した。その跡を同十九年に嫡子勘兵衛長房が相続、正保五年土沢舘が焼亡し、長房は同年盛岡に移住した。その後花巻城代となり、寛文十年死去。その跡を葛西正兵衛晴易の二男越前隆真(のち長十郎、勘兵衛、市左衛門)が養嗣子となり相続した。延宝四年年頭の名代使者を勤め、元禄元年には即位使者として上洛した。同五年実弟葛西市右衛門晴興に新田の内六十一石一斗九升二合を分知し、同十五年死去した。その跡を進弥恒篤(のち舎人、勘兵衛、市左衛門)が相続した。同十七年年頭の名代使者を勤めた。宝永三年江戸護持院火番出張用を勤め、同六年加判役(加判に当たる家老)となった。のち退役、享保五年加判役再勤、同十三年退役して隠居。友山と号した。寛延三年に死去した。その跡を嫡子勝次郎隆泰が幼少で相続、同十五年死去した。その跡を恒篤の三男長作隆存が末期養子となり相続したが、のち病によって隠居した。その跡を実弟逸平恒和(のち勘解由)が相続。火消役、中丸番頭を勤め、明和八年死去した。その跡を嫡子友吉恒治が相続、同年死去した。その跡を二弟善七恒頭(のち市左衛門)が末期養子となり順相続した。天明元年自殺し、千五百石の家禄は収められ家名断絶となった。その後天明二年実弟政次郎恒箭(のち栄作、牧太)が家名立を以て召出され地方百石を食邑。文政三年死去した。その跡を嫡子栄治恒隆(のち寛)が相続、代官を勤めて天保六年隠居した。その跡を嫡子隆之進が相続、徒頭、毛馬内通代官を勤めて安政二年死去。その跡を政次郎恒承(のち誠機)が相続。番子組頭、使番、目付を勤め、維新後の藩制改革によって監察となった。明治十一年の士族明細帳によれば、新庄村(盛岡市)三十五番屋敷に住居と見える。その跡をカツ━謙二━清と相続、当主の清夫氏は茨城県に在住する。歴代の墓地は東和町土沢の浄光寺にある。高百石の采地は高木通毒沢村(花巻市東和町)に食邑していた。

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