漆戸 うるしど

漆戸氏一族


『参考諸家系図』によれば、盛岡藩士漆戸家は、漆戸甚五右衛門正常を祖と伝える。正常は甲斐(山梨県)に生まれ、武田信玄に仕えて同国漆戸郷に三十貫文を領し、同国に死去したという。その子勘左衛門正茂は天正十年武田勝頼滅亡の後、初め本多上野介正俊に仕えて五百石を知行。のち浪人となり寛永中盛岡に到来。同十二年南部家に召抱られ、寛文七年六十八歳で死去した。実はこれを逆算すれば慶長十年の生まれ。武田家滅亡の天正十年は誕生の年より二十数年前のことであり辻妻が合わないほか、慶長十九年大坂陣の戦列に、赤袰衆の一人として散見する漆戸千太郎(上下九人)は家譜に見えないなど、南部家に出仕年代は経歴の誤伝により不明。一説によれば、道灌流軍学を以て召出されたが学を石川丈山に請けたと伝える。出仕後、地方二百五十石を和賀郡二子村に知行、のち弘前藩境警備の任を帯びて野辺地城代となった。寛永十一年主家南部重直に従って将軍徳川家光の上洛に供奉。のち数度の加増があり高千石となる。加判役(加判に当たる家老)を勤めて寛文七年死去した。家格を高知に据えられた時期は未詳。正茂に長男三郎兵衛正継、二男甚五左衛門茂慶の男子があり、長男正継は父に先だって部屋住で死去により家督は嫡孫勘左衛門正光が相続、その四代の孫勘左衛門正宥の二男勘右衛門義条は、寛保四年に兄玄蕃正方より地方五十石の分知を請け一家を創立した。子孫に至り百石を知行。正茂の二男甚五左衛門茂慶は万治二年に父正茂の願により百石を分知せられ、その後漸増。高千石を知行し高知家格に列せられた。その家督は嫡子石見茂英、次いで嫡孫主膳茂親と継承した。茂英に五男あり、二男と三男は他家を相続、四男林茂真は享保十八年茶道に召出されて初め三人扶持、のち還俗して七駄六人扶持(高四十二石)を宛行われた。子孫に至り片馬四人扶持(高五十二石)を宛行われた。五男新兵衛茂光は延享四年三戸左京信居の家臣となり三人扶持を宛行われた。文政三年に召出され二人扶持(高十二石)と四季施九貫三百文を宛行われた。漆戸古林はその系不明であるが茂光の子孫であろうか。

正常━正茂┳正継━正光━正常=正勝━正宥┳正方    明治二年支配帳 漆戸玄蕃家
     ┃              ┗義条    明治二年支配帳 漆戸角弥家
     ┗茂慶━茂英┳茂親┳尚茂          明治二年支配帳 漆戸甚左衞門家
           ┃  ┣茂清       
           ┃  ┗茂明          明治二年支配帳 漆戸六右衛門家
           ┣茂真             明治二年支配帳 漆戸 昌家
           ┗茂光             明治二年支配帳 漆戸亀治家

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