漆戸 うるしど

漆戸角弥家

 
 明治元年の支配帳に漆戸角弥家がある。『参考諸家系図』によれば漆戸勘左衛門正宥の三男勘右衛門義条を祖と伝える。義条は寛保四年に兄玄蕃正方より志和郡杤内村、岩手郡長山村に采地五十石の分地を請け一家を創立。藩主子弟の相手、次役、取次、赤羽根番所番人、謫人金森兵部少輔構番を勤め、天明元年隠居した。その跡を本家漆戸玄蕃間阪田の二男酉松(のち安之進)が相続、門馬山奉行を勤めた。天明四年以降の事蹟不明である。その後大槌古今伝記によれば、酉松(のち安之進)との関係は未詳ながら、文化十五年に勘右衛門が大槌代官として赴任している。勘右衛門至富は文政二年に友蔵と名を改め、その後八幡寺林通代官等を勤めた。同八年本家漆戸甚五郎より内分五十石を請け、高百石の軍役を勤め、天保四年死去した。謙信流兵学を臼井直左衛門健将に請けて同流師範となり、その流儀を新渡戸傳蔵維民に継承した。家督は嫡子傳左衛門(のち官右衛門、武具奉行)が相続、慶応二年の支配帳には官右衛門で散見する。その跡を大吉(鉄炮方)━角弥政就(慶応三年に家督)と相続。明治十一年の士族明細帳によれば、政就は上衆小路六番屋敷に住居と見える。その跡をクラ━四郎と継いで、当主の玄氏は栃木県に在住。歴代の墓地は盛岡市北山の報恩寺にある。高百石の采地は二十八石余を雫石通長山村(雫石町)に、二十一石余を上田通杤内村(紫波町)に、残り五十石は本家の内分であった。

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