漆戸 うるしど

漆戸玄蕃家

 明治元年支配帳に高知・漆戸玄蕃家がある。『参考諸家系図』によれば、漆戸氏の嫡流。漆戸甚五右衛門正常を祖と伝える。正茂の南部家に出仕した時期については所伝に誤りがあり定かでないが、人物像から見れば、学を石川丈山に請け、道灌流軍学を以て南部家に出仕した傑出の人物であったという。初め地方二百五十石を和賀郡二子村に知行し、のち津軽境警備の任を帯びて野辺地城代となった。寛永二十年家老七戸隼人正直時と倶に、山田湾に停泊するオランダ船ブレスケンス号のスハープ船長ほかを拿捕して幕府に連行、その功により地方二百石を鹿角に加増、四百五十石となった。同年大目付となり、その後数度の加増によって高九百石を食邑。万治元年加判役(加判に当たる家老)となった。翌二年二男漆戸甚左衛門茂慶に高百石を分地して高八百石となった。寛文四年藩主重信が襲封の時八戸弥六郎と倶に随身して将軍徳川家綱に謁した。同六年二百石を加増され千石となり、翌七年死去した。家格が高知に列した時期は未詳。家督は嫡子三郎兵衛正継が父に先立ち部屋住で死去したので、嫡孫甚之助(のち勘左衛門)正光が嫡孫承祖、祖父の遺領千石のうち八百石を相続、残り二百石は叔父漆戸甚左衛門茂慶に宛行われた。貞享四年死去した。その跡を嫡子助三郎(のち勘三郎)正常が相続。実は父正光が死去の時には未だ胎児であった。藩は男子出生の時には直ぐに家督相続を。女子出生の場合は目先婿養子に相続させるとの方向を示した中で、正常は同年に出生、即日家督を相続したという。しかし、元禄三年早世。享年四歳であった。その跡を分家漆戸甚左衛門茂慶の三男才次郎(のち勘三郎、甚五郎、勘左衛門、玄蕃)正勝が末期養子となり、遺領六百石を相続した。元禄八年二百石を加増され高八百石となった。宝永二年加判役となり、玄蕃と名を拝領した。正徳元年二百十五石を加増されて高千石(十五石不突合の原因不明)となる。享保八年死去した。その跡を翌九年に甚五郎(のち勘左衛門)正宥が相続した。同年御側頭となり、同十三年加判役となったが、元文二年江戸で役儀の上で故あり自殺した。『塵袋』は、「家老漆戸某は吉原通に放蕩し、女郎を身請した果てに切腹した。後日、漆戸某が南部侯の吉原通の世評を打ち消すために仕組んだ藩主身代わり」と伝えてる。忠臣の風説は江戸の街に宣伝されたという。江戸愛宕下青松寺に埋葬され、家禄並びに自宅は収められた。妹浦は藩主利視の側室(月光院殿)である。正宥の自殺により、一時収禄されたが嫡子甚五郎(のち玄蕃)正方は更に召出され、和賀郡二子村、志和郡杤内村、岩手郡長山村、浅岸村に五百石の采地及び旧宅を宛行われ、平士上座に列せられた。同年御側役並びに小身御番頭となり、次いで同四年御新丸番頭格御側役となり、寛保三年に御側役兼帯御用人となった。翌四年弟角弥義條に五十石を分地、その後宝暦六年新丸番頭、明和六年から再度御用人となり、安永四年御用人退役の時、功績を以て高知家格に復した。同五年中丸御番頭となり、天明二年に隠居、享和三年死去した。その跡を右兵衛(のち玄蕃)が相続、寛政七年に隠居し文化十年に死去した。その跡を大隅(のち玄蕃、左司馬)至文が相続した。中丸御番頭となり文政十年に隠居、翌十一年死去した。その跡を奥瀬左司馬の弟龍助(のち勘五郎)至幾を養嗣子としたが部屋住で死去。二孫龍助(のち石見、兵庫之助、勘左衛門)が嫡孫承祖した。同十二年中丸御番頭となり安政元年隠居、その跡を嫡子靱負(のち玄蕃)正英が相続した。加番組御番頭、中丸御番頭を勤めた。明治八年にその跡を嫡子正家が相続、同十一年の士族明細帳によれば、上米内村八十番屋敷に住居していた。その跡を実弟正文が継いだが、正文の代で絶家した。歴代の墓地は盛岡市北山の報恩寺にある。高四百五十石の采地は百四十八石余を二子通二子村(北上市)に、百三十一石余を上田通杤内村(紫波町)に、百五十四石余を雫石通長山村(雫石町)に、十四石余を上田通浅岸村(盛岡市)に、一石余を同通加賀野村(盛岡市)に食邑していた。

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