梅内 うめない

梅内久兵衛家 200317

 明治元年の支配帳梅内久兵衛家がある。『参考諸家系図』によれば宮藤左京助義の二男梅内弥次郎春房宮藤左京助義の二男梅内弥次郎春房を祖と伝えている。春房は梅内村の在名により梅内氏を称し、文明七年に死去。その跡を弥次郎吉房が相続(天文十年死去)━左京重房と相続。重房は南部利直にに仕え、寛永三年に死去したという。推して数代の脱落が考えられる。なお、慶長六年の和賀岩崎の陣、慶長十九年の大坂の陣に見える梅内左近は同世代であるが、両者の関係は不明である。その跡を実弟久次郎驚房が順相続して万治四年死去。その跡を嫡子弥五郎(のち久右衛門)房寛が相続して元禄六年に死去した。参考諸家系図はその子弥五左衛門房次の譜に、寛文五年徒に召出され、六駄二人扶持(高二十四石)を食禄し元禄九年死去したと伝えている。しかし、父祖失禄のことは見えず、前後のことは不明である。その跡を嫡子久左衛門房矩が相続した後、下小路屋敷守を勤め、その功績を以て士班(組付御免)に列した。寛延三年に隠居、同四年死去した。その跡を嫡子弥太夫(のち久左衛門、久右衛門)房栄が相続。薬園奉行となり、寛政七年一駄を加増され、七駄二人扶持(高二十六石)となった。翌八年死去した。二弟に自力房■(言篇に是)がいた。房■は幼名を新五郎といい、正徳五年側小僧に召出され善斎と改めた。享保元年初めて二人扶持と四季施五両を拝領、同四年罪を得て出仕を禁じられた。のち更に茶道に召出され、後年還俗して表次役となり、自力と改めた。元文三年五人扶持(高三十石)となった。宝暦五年収禄、福岡に追放され、同十年配所で死去した。種子島流炮術を大村理左衛門知陳に請け、「射的の上手」と賞せられたという。房栄の跡は寛政八年に嫡子軍左衛門(のち久右衛門、久左衛門)が相続。薬園奉行となり文化十一年に隠居した。その跡を嫡子多門(のち九十九)が相続、下小路屋敷守、薬園奉行を勤めた。その後天保十二年の支配帳には弥蔵が見える。弥蔵は多門(のち九十九)の嫡子。遡って九十九が薬園奉行となったのは天保二年であり、弥蔵の相続は天保二年以降、同十二年の間と知られる。その後万延元年に養嗣子久兵衛が相続。明治十一年の士族明細帳によれば、上田小路一番屋敷に住居と見える。その跡を傳次郎━久三━三郎━キクと相続。歴代の墓地は盛岡市大慈寺町の長松院にある。

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