内堀 うちぼり

内堀若狭家


明治元年支配帳に高知・内堀若狭家がある。『参考諸家系図』によれば、内堀伊豆頼式を祖と伝える。頼式は本国近江(滋賀県)内堀にて浅井備前守長政に仕えたが、天正元年浅井家滅亡の後前田利家に仕えて加賀(石川県)金沢に住居した。南部信直が前田家と親交を結ぶに至り、天正中しばしば三戸に使者を勤めた。南部家より前田家に請うて同十七年に迎えられ、地方五百石を食邑した。文禄中盛岡新城の築城に四戸上総と倶に縄張下司地割奉行を勤めた。慶長六年春の岩崎陣(上下三十人)、次いで同十九年大坂冬の陣には嫡子勘平宣政(上下二十二人)と倶に出陣した。元和六年五百石を加増されて高千石となった。厚遇を得て晩年に隠居、円斎と号した。寛永十年知行所新堀村(石鳥谷町)に鷹野場を宛行われ、同十三年死去した。享年九十一歳。二子あり、嫡子勘平(のち織部)宣政は慶長十九年大坂冬の陣に父頼式と倶に出陣、寛永中に父の家督を相続した。二男浅右衛門(のち勘平)幸政は藩主重直の時に別に召出された。宣政は家督相続後、同十一年主家南部重直に従って将軍徳川家光の上洛に供し、正保二年江戸城堀浚普請手伝の時、楢山五左衛門と共に普請奉行を勤めた。寛文四年死去した。嫡子伊豆頼宗は部屋住で父に先立ち死去していたため、嫡孫長寿(のち民部、織部、帯刀、伊豆)頼古が祖父の家督を嫡孫承祖した。同六年京極丹後守高国(丹波宮津城主・七万八千石)を大名預の時、謫所造営まで内堀家が預かった。貞享三年采地千石を鹿角郡柴内村、小平村、根市村、草木村等十二ヶ村から稗貫郡新堀村に転封された。宝暦三年切添新田百石を加増されて千百石となる。享保十四年隠居して無為軒と号し、元文五年死去した。嫡子将監頼貞は部屋住で死去。よって嫡孫帯刀(のち造酒)頼則が祖父の家督を嫡孫承祖。安永六年に隠居して天明三年死去した。家督は嫡子四郎兵衛頼之が部屋住で死去していたので、嫡孫勇助(のち伊豆、壱岐)頼丞が祖父の家督を嫡孫承祖し、文化八年に死去した。その跡を嫡子栄司(のち大蔵)頼愛が相続、文化八年に隠居して同十三年死去した。その跡を父頼丞の二弟易人(のち大隅、織部)頼寛が相続、文政十一年に隠居、同十三年死去した。その跡を頼愛の子若狭(のち又四郎)が相続した。天保十年分家内堀祐司に五十石を分地したが、慶応三年金方五十石を加増され、高は千百石となった。御用人、御側御用人を勤めた。明治三年嫡子守貴が相続、同十一年の士族明細帳によれば、内丸二十一番屋敷に住居と見える。守貴の跡は頼太郎、その跡を頼一と相続、その跡を順相続した実弟の頼二は東京に在住する。歴代の墓地は石鳥谷町新堀の新仙寺にある。高千百石の采地は千十四石余を八幡通新堀村に食邑、残り八十五石余は無高であった。



盛岡市中央公民館所蔵 南部家旧蔵記録


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