臼井 うすい

臼井左衛太家 191212

 明治元年支配帳に臼井左衛太家がある。『参考諸家系図』によれば、臼井仁右衛門景雄の三男臼井隼太を祖と伝える。隼太は宝蔵院流鎌術を村角運之助知睦に師事して同流師範となり、文政三年その非才を以て召出され、三人扶持を食禄した。大更新田奉行を勤め同十一年に死去した。その跡を嫡子三蔵(のち左衛太)が二歳の幼児で相続したが天保十一年死去した。その跡を養嗣子融市(のち左衛太)が相続。慶応元年物価高騰を理由に本高同様の手当米十二石が支給され、手当米ともで三駄四人扶持(三十石)の実収となった。奥詰、福岡蔵奉行、田名部通代官所下役、大奥用聞を勤め、維新後南部家の家従となった。明治十一年の士族明細帳によれば、日影門外小路二十六番屋敷に住居と見える。その跡を左衛一が相続、その子で当主の一行氏は福岡県に在住する。歴代の墓地は盛岡市北山の法華寺にある。

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